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題名: エドウィン・マルハウス
原題: Edwin Mullhouse
著者: スティーヴン・ミルハウザー
訳者: 岸本佐知子
発行: 福武書店 (1990/11/27)
価格: \1,800
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【内容紹介】
「読者よ! 本とは何だろう? それは頭蓋を内側からじりじりと圧迫してここから出せと叫ぶ力だ。」
1943年8月1日午前1時06分、コネティカット・ニューフィールドに生まれたエドウィン・エイブラハム・マルハウスは、1954年同日同時に悲劇的な死を迎えた。これは隣家に住んでいた6ヶ月と3日年長のジェフリー・カートライトが克明に綴ったエドウィンの「伝記」の復刻版である。
【感想】
本書は少年を主人公とした小説でありながらセンチメンタリズムを拒み、謎と企みに満ちています。その構造は、ウォルター・ローガン・ホワイトなる人物が復刻したジェフリー・カートライト筆による伝記『エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死(1943-1954)』(1955)という三重からくりの底にあり、著者自身の姿までたどりつくことさえ容易ではありません。ほとんどの少年小説は著者の分身や回想がさりげなくあるいは意図的に紛れ込むものですが、「自分」をあくまでも隠し創作に徹底した姿の現れのようにも思えます。
「主人公」エドウィンはある意味エキセントリックな子どもであり、その熱中癖は常軌を逸しています。言葉、女の子、そして小説の創作。臆病である彼は熱中の対象のまわりをくんくんと嗅ぎ回り、無害でないことを確かめずにはいられません。そしていったんとらわれてしまうと今度は猛然と挑みかかります。それはわが身を焼き尽くすほどに自制心に欠けた行動となって現れます。しかしそうした熱中と没頭こそが子どもの特権であり、わたくしたちにしたところで、制約や子どもなりの処世配慮がなければ本当はいつまでもそうしていたかったのではないかなー。夕ご飯までには家に帰れと言われ、習慣のように従い、なんとなく自分の中の二重生活に疑問も抱かなくなったけれど。それは成長だと思っていたけれど。
このエドウィンを観察記録する役目を担っているジェフリーは、「よい子という設定」なのでしょう。回想を排して子どもを記録しようとすれば、同じ高さの視線が最善であることは言うまでもありません。親兄弟ですらない、親友と言うよりはむしろ黒衣(くろこ)に近い存在。隣人ジェフリーは観察者として選ばれたのですが、眺めるだけでは飽きたらず、対象であるエドウィンとの同一化に向かって進んでいるようにも思えます。小説『まんが』の創作に没頭するエドウィン、そしてそれを克明に記録し続け、「伝記作家」となるジェフリー。その姿は表裏一体となって浮かび上がります。
ジェフリーは自分の才能を誇示することはためらいませんが、家族との私生活については頑なに触れようとしません。わずかに時おり母親が現れるだけで彼の父や兄弟は現れず、エドウィンの父母だけではなく、さらにはエドウィンの妹カレンと遊んだりしています。思春期以上になったら別かも知れないけど、およそ男の子にとって友人の妹ほど邪魔っけなものはありません。それでも彼は「エドウィン」なるものと同一化するためなら、そうした面倒も厭いません。同一化、それは最終的にはどこにまで向かうのか予断を許しません。
子どもにとってひとつの時代、ひとつの世界が完結するとは、おそらくそれだけの重みがあったのでしょう。わたくしを含め、たいていの子どもは繊細を気取りつつ実は無神経なだけであり、気づくこともなく過ごしてしまうのですが。
本作ではこうした「小説」としての企みに加え、言葉を覚える過程での言葉遊び、ハンナ・バーバラのアニメを想起させるドタバタアニメのイメージや傑作題名遊びなどの寄り道が随所に仕掛けられ、悲しく残酷でおかしくて混沌、そう、まるで子どもそのままの世界を形作っているのです。