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題名: 運命ではなく
原題: Sorstalansag
著者: ケルテース・イムレ
訳者: 岩崎悦子
発行: 国書刊行会 (2003/07/29)
価格: \1,900
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僕の肉体が僕を見殺しにするのには、三ヶ月もあれば十分なのだ。
【内容紹介】
ナチスによるユダヤ人狩りは、枢軸同盟に参加したハンガリーにも及んだ。まず大人たちが「労働キャンプ」に招集され、街から姿を消した。続いて14歳の「僕」を含む少年たちは「勤労奉仕」に駆り出された。子どもにとっては単に学校が工場に変わっただけのことだったようにも思えたが、ある日、出勤途中に僕たちは警官に制止され、そのまま家への連絡も許されずアウシュヴィッツ行きの列車に詰め込まれたのだった…。
2002年度ノーベル文学賞のハンガリー人作家ケルテースが自らの収容所体験をもとに、透徹した少年の目で描く、衝撃的にして透徹した精神を感じさせる回想の物語。
【感想】
「僕も与えられた僕の運命を最後まで生きた。僕の運命じゃなかったけれど、僕は最後まで生きたのだ。」
「ユダヤ人であるということは、偶然に過ぎない。しかし、それが運命を分けることだってある。」
主人公の少年は、罪なくして強制労働・強制収容という苛酷な「運命」に直面します。そして収容所で病を得ながらも、かろうじて生還したのは「運」が良かったというべきなのでしょうか。「運命」―その得体の知れない、人を翻弄してやまないものは何なのか。彼は当時を回想することで、その謎に挑みます。
しかし、この少年の目と記憶は実に的確です。もちろん物語を書き始めた時点で残存している記憶がベースとなっているはずなのですが、少年時代からすでにさまざまの事象を観察する術を心得てその奥まで見透していたからこそ、これだけの世界が描けるのでしょう。その点についてはユダヤ人迫害にとどまらず、彼の個人的な事柄においても同様です。少年の両親は離婚し、継母さんと「僕を置き去りにした」ほんとうの母さんとがいるのですが、それら彼を取り巻く大人たちの心理をもよく観察しています。たとえば父がまず労働キャンプに「招集」されたときの別れの情景。彼は父がそれを望んでいることを知り、食欲が湧かない演技をしてみせるのです。そうした観察眼の鋭さと洞察力が、物語に真実感と、単なる告発にとどまらない少年の成長という深みを与えているように思えます。
彼は、これもまた「運命」と言えそうな一瞬の選別を切り抜け、最終収容所アウシュヴィッツから労働収容所ブーヘンヴァルド、ツァイツと収容所を転々と移送させられます。彼はその情景だけではなく自分たちに流れている「時間」をも観察します。収容所の中には「退屈」すら存在するという発見。観察と記憶、それは後で証言しようとのことではなく、『夜と霧』でフランクルが行ったのと同様、理性を保つひとつの方法だったのでしょう。
見たことは見た、聞いたことは聞いた、体験したことは体験した、考えたことはこうだ。少年は、自分の生を記録するために、事実以外を厳密に排除しようとします。それでいて本書は決して即物的でも冷淡でもなく、やはり14歳の少年の繊細な感覚と叙情性が残されています。彼はわずかな友情に感動し、治療を続けようとする医師の手を希望をもって見つめます。ついに帰郷し、自分に与えられた生を噛みしめたとき、彼は自分が存在することに誇りすら抱いていたのかもしれません。
(著者ケルテースは1929年ハンガリーのブダペシュト生まれ。主人公と同様、第2次世界大戦中、アウシュヴィッツなどで収容所生活を送り、かろうじて生還した。)