闇を走る機械
1
氏家真美は夢を見ていた。
さまざまな顔の持ち主たちが疲れた堅い表情で救いを求めるように両手を伸ばし、真美の身体に触ろうとしている。その中には父や母やあの人の懐かしい姿もあるが、ほとんどは見も知らない顔だった。
なぜ、と真美は叫ぶ。わたしはあなたがたに何もして上げるつもりはないのに。
そして真美はこの修羅場を逃れるために空中に浮揚しようとして両手を上げる。真美の意志は夢の中でも理性を支配し、彼女は人々を下界に残して天空に浮かび、解放感と共に大空を翔ける。流れる大気を掴もうと、さらに思い切り広げた左手は、柔らかく暖かい物に突き当たった。
「ん。痛えな……」その物体がもごもごと口をきく。
「あら」と真美はたちまち現実に戻って声のほうにからだを向けた。「ごめん、起こしたかしら」
「うーん、もうこれ以上は勘弁しとくれよぉ」
「馬鹿ね、何言ってんのよ」真美は自分でも恥ずかしくなるほど蓮っ葉な調子で言った。「ほら、もう明るくなってる。あと五分で目覚ましがなるわよ」
「んなら、五分寝かせてくれ……」
男はそう呟いてたちまち寝息をたてる。
真美はその薄くなりかけた後頭部を眺めながら、世間の妻たちは毎朝のようにこういう男の身勝手に耐えているんだろうと想像する。真美はかつて短い結婚生活を送ったことがあった。その相手は真美以上にエネルギッシュな人間で、少なくとも真美より遅く床を離れることはなかった。彼は精力的に人生を走り抜け、そのあげくにさっさと一人であの世に旅立ってしまった。真美はいまでも彼との生活は夢の一部ではなかったかとぼんやり考えることがある。確かな証拠物件が残されているにもかかわらず。
とるる、とるる、と目覚ましが電子音を立てた。真美はボタンを押してベルを止めると、明るい口調で言った。
「センテックスの中村部長様、センテックスの中村部長様、社長様よりお電話でございます」
男はがばっと跳ね起きた。
「悪い冗談はよせよ。寿命が三年は縮まったぜ」中村康夫はチーズトーストをかじりながら言った。
「へえ、そんならあと十回もやればぽっくり行く勘定ね」と真美は鏡に向かいながら言った。
「いや、十三・五回は必要だな。それでこの〇・五回のやり方が難しい。下手にやるとゾンビになる恐れがあると言う」
「誰もそんなこと言ってやしないわよ。それより早く食べて。わたしもう出るわよ」
「どうぞお先に。鍵をお預かりしましょう」
「悪い冗談はよせよ」と真美は鏡に映る中村に唇を突き出して見せる。「わたし、誰にもこの部屋の鍵はわたさないの」
「それはお堅いことで。だけどおれたち付き合ってそろそろ一年になるぜ」
「付き合いの長さや深さの問題じゃないわ」
死んだ亭主への操だてってわけかしら、と真美は声に出さずに続け、一人で苦笑する。中村は不審そうにその様子を見ていたが、やがて立ち上がりながら言った。
「近いうち、君の力を借りることになるかも知れない。今回の出張はその下準備だ。ところで一週間ほど滞在することになるけど、鍵がないと不便だな」
「そんならカプセルホテルにでもお泊まりなさい。出張費を浮かせる手助けはしません。−−でも力は貸すわよ、有料で。どういう話なの」
「全くてぇしたアマだぜ」中村は着替えながら言う。「実はセンテックスの新製品発売を支援して貰いたい」
「どんな製品よ。そんな噂、聞いてないな。今までよく隠し仰せたものね」
「ほっ、業界の通信衛星と言われる氏家女史の目をごまかせたとは光栄の至り。ま、その話は今夜にでもゆっくりと」
「なかなか交渉上手ね。門限は十二時、泥酔者は追い出すわ。九時には帰宅していると思うけど、食事は済ませて来てね」
「おれ、やっぱりカプセルホテルにしようかな」中村は情けなさそうに言った。
氏家真美は代々木上原駅まで起伏の多い道を約十五分歩き、小田急に乗車する。新宿に本社を構えるハイテク・リサーチまでは待ち時間を含めても四十分もかからない。絶好のロケーションに2DKながらマンションを所有しているのは父の先見の明による。オイルショックで金利が下がったときに、まだ学生だった真美に持参金になるからと言って買い与えたのだった。もっとも真美は大学を卒業するとすぐに恋に落ちて、その相手と共に地方へ行ってしまい、東京本社に戻った父が逆単身赴任で使っていた。その父も今では田舎に引っ込んで孫の相手をしている。ふたりの妹たちは東京の大学に行くほどの度胸もなく、いったん実家に帰っていた真美が上京し、マンションを独占しても誰も文句を言わなかった。それからすでに十三年たっている。
真美が勤務しているハイテク・リサーチは、人材派遣、調査出版、就職情報、そのほかハイテク関係の展示会演出、広告等、何にでも手を出す会社で、忙しい割りには儲からない。ただ、ライバルの大手業者が政治的スキャンダルで評判を落としたときに強引な営業で売り上げを伸ばした名残で、小さいながら自前のビルを持っている。真美は入り口の守衛に軽く挨拶し、エレベーターを待たずに三階に昇った。ドアを開けると誰も出社していない部屋の無機的な匂いが真美を包んだ。
真美は机の間を通り抜け、一番奥の自席に向かう。真美の机のうえには『取締役調査部長』と刻まれた小さなプラスチックのプレートが立てられている。初めてこの席に座ったときには気恥ずかしさが先にたって、迎えてくれた部下たちの拍手にも顔を赤らめてしまったものだったが、二年目ともなるとさすがに落ち着いて来た。それどころか、一部の大株主からは早くも次の次あたりに社長にしたらという声さえ出ている。
真美は椅子に座ると端末のスイッチをいれ、企業データベースを呼び出した。続いて『センテックス』をインプットすると、CRTに会社の組織、内容、経歴、成績、将来等がずらずらと表示された。
株式会社センテックスは東京に本社を置くものの、発祥の地はその名称に名残を止めているように仙台市である。通信工学の大御所、西沢教授の肝入りで、東北大学工学部各科のオーバードクターたちが寄り集まって旗揚げをしたと言われている。社名は当初手掛けたセンサーにも引っかけたもので、スタートは電子部品が主製品だった。それが家庭電化製品の分野にまで進出したきっかけは、ビデオのVHS対ベータ戦争だった。
VHS用ヘッドの下請け生産をしていたセンテックスに、ある日、ベータ陣営に属していた大手家電メーカーの幹部社員が現れ、極秘のうちにVHSデッキのOEM、すなわち相手ブランドによる代行生産を持ちかけたのである。センテックスはこれを了承し、その家電メーカーは三か月後突然VHSへの転向を発表した。そして、センテックスが製造し、そのメーカーのブランドを付けたVHSデッキが市場に出回るに至って、日本でのホームビデオ方式の大勢は決した。
センテックスはさらに一年後、そのメーカーとのOEM契約の打ち切りを見越し、自社ブランドでのデッキ生産に踏み切った。これにあたっては敢えて低価格路線を取らず、マニアに訴えるような斬新なデザインと広告、そして実際に優秀な性能と操作の簡易さとで先発メーカーのシェアに食い込むことに成功した。続いてセンテックスはオーディオ部門にも進出し、この分野でも折からのNIESブームに反発するかのように高級機志向を続け、ミニコンポ復活の先鞭をつけた。
ここまでは誰でも知ってることねと真美は思った。そのセンテックスの開発部長である中村康夫が匂わせた『新製品』について、資料は何も語ってくれない。当然と言えば当然のことだが、ハイテク・リサーチ調査部長の立場としてはそれで済ますわけには行かなかった。
「あいつ、何を企んでるんだか」と真美は声に出して言った。
「−−お早うございます」
真美がその声に目を上げると、原田俊一郎が白い歯を見せて立っていた。
「なんのお調べですか」と言って原田は身を乗り出し、CRTを覗き込む。真美はやむなく半身の体勢となった。「ははあ、センテックスね。なるほど」
「なるほどって原田さん、何か知ってるの。ここについて」
「まあ、エレクトロニクスショーの初出品に手を貸した関係で多少は知ってますが」
その程度なら真美と大差はない。だいいち真美が中村と知り合ったのも、センテックスが初めて大型見本市に出品するのを演出したことが縁となっている。
「原田さん、今日忙しい? もしできたら探って欲しいことがあるんだけど」
「そりゃ氏家さんのご命令とあらばたとえ火の中水の中ですよ、なんでもお申し付けください」
原田はいつもの調子で大仰に請け合った。三十を二、三は越しているはずなのに独身で、それは個人の自由で構わないのだが、氏家さんをなんとしても嫁に貰うと仲間内でも公言して憚らないのには真美も閉口している。ただ、こうしてべたべた甘えたがる割りには一向に行動を起こさないのは単なるマザコンか、あるいはホモセクシュアルなのかも知れない。
「実はね、ここで何やら新製品の匂いがするのね。ブーミングにかけられるものならやってみる価値があると思うの」
「氏家さん、まだ中村部長と付き合ってるんですか。妻子ある男との不倫はいいかげんにして、僕と結婚しましょう」
原田の冗談が図星であるだけに真美が何も言えずにいると、井上はるみが出社して来て、
「お早うございます」と声を掛けてくれた。
「あ、井上さん、お早う」と原田がハイトーンの声を出した。
こいつは女だらけの環境に向かないのかもしれないと真美は思った。ハイテク・リサーチは、女性社員の占める割合が派遣社員やアルバイトも含めれば八〇パーセントを越す女所帯である。女性は男だらけの環境の中でも比較的自己を保っていられるが、逆の場合はそうはいかない。やたらマッチョ風を吹かすか、朱に交わってなよなよとしてしまうか、男だけで固まってしまうかいずれかである。原田をどこかに出向させようか、と真美は考えた。しかし急に男だらけの中に放り込んで潜在的ホモセクシュアルが顕在化したらどうしよう。いや、それはそれで本人のためかも知れない。まったく管理職はこんなことまで考えてやる必要があるのかしら。真美は馬鹿馬鹿しくなってくる。自分が仕事一途だとかドライだとか思われているのは承知していた。その内実はこんなにウェットなのよ、全く。もっとも口に出して愚痴を言うのは、たまに実家に帰ったときに限られていた。
「氏家さんがね、次のターゲットはセンテックスだと言うんだけど、井上さん何か聞いてる」
原田が小娘を扱うように言った。年下の女性に対してはそれだけで優越感を抱いているらしい。
はるみは、ちらりと目を輝かせた。真美と中村の仲を知っているのは子飼いの部下であるはるみだけであった。一人住まいをしている真美は万一のことを考え、私生活のすべて、連絡箇所などをこの口が堅く聡明な部下に打ち明けていた。
「センテックスと言えば、ポータブルCDのライセンスで多少もめていたと聞いておりますが、その辺でしょうか」はるみは真美の目を見ながら言った。
「いまさらそんなものじゃブーミングにもならないよ」と原田がせせら笑った。
ブーミングというのは真美の造語で、ハイテク・リサーチ傘下のメディアを総動員し、故意にブームを巻き起こすことである。過去、『遠赤外線』、『ファジィ』、『デカーボンジオキサイド』、『ロジスティック・ロジック』など、本来は専門用語であったものを流行語にまで発展させたのはハイテク・リサーチの宣伝力の勝利だった。そして、ハイテク・リサーチにとっては何がトレンドなのか予め承知しているのだから、ブームを起こすことに成功しさえすれば、それに伴う特許、商標、キャラクター等々を独占することは容易であり、それらを各メーカーに売却することによって上がる利益は莫大なものとなった。一時業績が悪化していたハイテク・リサーチが持ち直したのも、この利益が他部門の赤字を吸収してなお余裕があったからだ。
真美はこのプロジェクトを創案し、成功させた功績でハイテク・リサーチの役員に就任した。ただブーミングの問題点は、日本人が甚だ飽きやすい事だった。どのブームも二年と続かず陳腐化する。しかも仕掛けたブーミングが空振りに終わることもしばしばある。打率五割としても半年に一個は新しいトレンドを作り出さなければならない。
どんな商品を消費者は望んでいるか、企業はどんなものを開発しようとしているか。それを耳触りの良い言葉で表現できるか、実験さえせずに書き上げた机上の空論に過ぎない特許をどうやって審査官に認めさせるか。それらの作業はすべて真美の双肩にかかっていた。真美が日頃から情報収集に力を入れているのには、こうした背景があった。
「とにかく原田さん、今日一日、できる範囲でいいからセンテックスを調べて五時に報告してね。それを聞いてから今後どうするか決めるわ。はるみはちょっと待機していて。そう、十時になったらもう一度来てちょうだい。今日、午後からでも仙台に行って貰おうかと思うの」
真美は二人の部下を退がらせると、きっちり三十分間を取締役としての書類決済に費やした。