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千葉は警官を二十五年程も続けているが、自分の資質に疑問を抱いたことはほとんどなかった。ところが今年は春からマサルの死体発見以来、自慢のカンも狂いっぱなしで、次第に第一線の刑事としての自信すら喪失しつつある。こうなると一体何を規範に仕事をすればいいものやら、あがけばあがくほど疑問にはまり込み、抜け出せない。現に今日の捜査会議でもセンテックスでの聴取状況を発表しているのは県警の庄子警部補で、千葉はもっぱら相槌打ちに徹していた。
「開発部長の中村康夫は四十七歳、中肉中背と言っていいでしょう。被害者と面識があったことは認めましたが、それは東京での見本市出品の折りにハイテク・リサーチが演出した関係というだけで、こっちでは会ったことがないそうです」
千葉は自分の手帳を眺めながら相槌を打つ。
−−ですから、原田さんが細倉で死体で発見されたというニュースにはびっくりしましたよ、と中村は言った。
その態度はあまりにも冷静すぎた。それは質問を予期してあらかじめ用意した返答なのだろう。おそらくは虚偽の供述に違いない。しかし言ってみれば、中村からは無機的な臭いしか漂って来ない。彼の言っていることは嘘だとは思うのだが、だからと言ってこいつが下手人だと断定するほどの警報は千葉のセンサも発していない。千葉はそれを自分のカンが鈍ったせいだと思った。現に庄子警部補は何のためらいもなく言い切っている。
「……このように中村は仙台で原田に会ったことを否定しておるのですが、これはいかにも不自然で、そのへんから崩せば意外とあっさり落ちるのではないかと思われます」
「すっかり犯人扱いにするのは決め付け過ぎじゃないか」とさすがに署長も口を挟んだ。「中村以外にも、センテックスで原田と面識があった者はいるだろうが」
「中村の話では、開発部の何人か、営業の何人かは見本市や新製品宣伝の関係でハイテク・リサーチに出入りしたことがあり、また、ハイテク・リサーチは人材派遣もやってて東京本社では何人か女子社員を紹介して貰っているとのことです」
「ほれ見ろ」と署長は言った。「いっぱいいるじゃねえか、関係者が」
「お言葉ですが」と庄子は自信ありげに言った。「ドライブインでの目撃者の言う人相年格好に合致するのは、中村をおいてはいないと思いますが」
「ほほう、そんならそいつら全部と会って確認したのか」
「いや、それはまだ……」
「それじゃ手抜きと言われてもしょうがねえだろう」
「ですが、早いとこ中村を拘留して取調べをしないと証拠を湮滅する恐れがあります」
「おれはそういうやり方はしねえんだ」と署長は言い聞かせるように言った。「時間はかかってもいいから、間違いはすんなよ」
庄子は無念そうに腰を下ろし、千葉のほうを見た。あんたもそう思うだろうと、その視線は物語っている。あいつに決まってるよな、署長みたいな軟弱な考えじゃ取り逃がすぞ。
千葉は弱々しく頷いて見せる。とたんに署長もこちらを見ているのに気付き、そちらにも微笑を送った。右顧左眄とはこのことだな、と千葉は内心苦笑する。こういうときはあまり頭は使うまい。しばらくは足の刑事に徹しよう。そう思って千葉は少し気が楽になった。
「とにかく千葉刑事は県警の応援を得て、センテックス仙台支社員のうち、被害者と接触した可能性のある者を全て洗い出してくれ。イニシャルや年齢性別にこだわるな。痴情怨恨の線も捨てたわけじゃねえんだからな。そしてそいつらの当日のアリバイも確認してくれ」
署長の指示に千葉は黙って頷いた。
「ひとつ、いいですか」と川島が発言した。「昨日、ハイテク・リサーチの井上はるみが当地に来ました」
「なんだ、花束でも持って来たのか」
「いえ、実地踏査だそうです。原田の追っていたネタを引き継ぎたいって言うんで、彼の手帳をコピーしてやりました」
「そりゃ親切が過ぎるだろう」と庄子が口を出した。「中村に頼まれて、証拠隠しの片棒担いでんのかも知んねえぞ」
川島はすこし蒼ざめた。
「いや、まさかそんなことは−−」
「なんで分かる。おれが見るところでは、センテックスとハイテク・リサーチは持ちつもたれつだ。お互い縄つきは出したくないわな。手帳には誰かと会ったこととか符牒で書いてあっただろ。こっちが解読する前に先回りして、警察が来たらこう証言してくれって頼むとか、いろいろ手は打てるじゃねえか」
川島は助けを求めるように千葉の顔を見る。しかし、今の千葉には、庄子の意見を論破するだけの力はなかった。川島は千葉が口を噤んでいるのを見て、諦めたように言った。
「そうかもしれませんが……しかし、井上さんは、ひとつ証言してくれました。被害者は電子手帳を携行していたそうです」
「なるほど、そりゃ重要だ」と庄子は小馬鹿にしたように言った。「しかし、そんなものは現場になかったな。ない物は何とでも言える」
「ですが、それには、具体的なアドレスとか、スケジュールとかが書かれている可能性があります」
「んなら、お前が見付けてくれ。立派な証拠になるだろうよ」
川島は悔しそうに下を向いた。
はるみは昼日中のホテルの部屋で、原田の手帳のコピーを眺めていた。スケジュール欄はほぼ埋まっているものの、使った金額を書き留めただけだったり、走り書きだったり、全く補助的な用途にしか用いていなかったことが分かる。ただ、子細に見て行くとイニシャルと思われるアルファベットが時折現れる。それは大文字の活字体でセリフまで付けているところが特徴的だった。例えば、四月初めにはまだ東京におり、そのころ氏家真美と一緒に労働基準監督署に行った際の記事は、U・lab・1300とこれだけだった。はるみはその日提出書類をまとめて真美に手渡したから覚えている。
−−一時に原田君と待ち合わせなの、と真美は言っていた。彼が労働者代表で、わたしが雇用者代表なの。馴れ合いもいいとこよね。
大文字の活字体はイニシャル。そう思って四月以降の欄から拾い出して見ると、Uが結構多い。氏家さん、気を使ってたのねと、はるみは思った。しかし、彼が東京にいた日は除いていいだろう。はるみは原田の出張記録と照らし合わせて、仙台に原田がいたときに現れるイニシャルを探した。結局はっきりそれと分かる文字はU、N、Fの三つだけだった。真美は今年仙台に来ていないはずだから、このUは別人と考えられる。そうすると、イニシャルだけでは人物を特定できないことになる。たとえば、Nという文字がすべて中村を指すとは断定できない。同じ日に二回Nが出てくることがあり、これは前後別々の人物と会ったものと解釈すべきだろう。どこか書き方を変えているのだろうかと、はるみはためつすがめつ見てみたが、区別ができなかった。本人が分かればそれでいいことなのだろうが、その本人はもうこの世にいない。
はるみは原田の机の中にあったセンテックス関係の名刺のコピーを取り出した。UとFに該当する姓はないが、Nは中村のほかに二名いた。
西野と根本か、とはるみは呟く。根本は確か開発部で、東京の見本市でも顔を合わせたことがある。はるみも名刺を貰っているはずだった。しかし、眼鏡をかけた小太りの男だったような記憶はあるものの、印象は薄かった。西野のほうは名刺に宮城野工場製造課と記されているから、会ったことはあるまい。とすると、根本からとりかかるしかない。
いきなり勤め先に電話をするのも百科事典のセールスみたいだし、だいいち中村には秘密にしておきたい。自宅の電話が分かればいいけど、と思いながらはるみは一〇四を回した。
「根本勝巳さんの番号をお願いします」
「住所は分かりますか」
「いえ、ちょっと」
「かつみはどう書きますか」
はるみは勝利の勝、巳年の巳と読み砕きながら、己じゃなくていいのかと余計な疑問を抱いた。しばらくして案内嬢が気の毒そうに言った。
「その方は番号簿に載っておりません」
はるみは礼を言って電話を切る。いまどき電話をひいていないと言うのも不自然だから、たぶん親と同居しているのだろう。それも商売をしていたりすると、とんでもない屋号でしかハローページに載せていないということも有り得る。
仕方ない、奥の手で行くかとはるみは呟いて、発声練習を始める。声が十分アルトになって、舌に訛りがこびりついたころをみはからって、センテックス仙台支社に電話を入れた。
「根本勝巳の母でございます。いつも息子が世話になっております。あの、ちょっと勝巳を……」
「技術部の根本さんですね」
「はい、そうなのっしゃ」
これはやり過ぎだったと見えて、相手は声が引き攣るのをこらえながら言った。
「あの、技術の者は、今ほとんど宮城野工場に出向してますが、ご存じありませんでしたの」
「あら、そうでした、すっかり忘れっぽくなりまして」
はるみは早々に電話を切った。少し失敗したがまあ怪しまれても旅の恥は掻き捨てと、くじけずにはるみは宮城野工場を回した。こちらも同じ手で行ったが、広いだけに全館にアナウンスしているらしく、しばらく待たされる。工場の同僚全員が、あいつの家で何か緊急事件が発生したらしいと周知徹底したころようやく根本が出て来た。
「なんだよ、会社に電話すんなっつってるだろ」と、おふくろを嘗めきっている。「おやじでも倒れたのか」
「あの、お間違えじゃございません」はるみは精一杯おしとやかに言った。「わたくし、ハイテク・リサーチの井上と申しますが」
相手は絶句した。