16
仙台市は人口当たりの喫茶店客席数から言えば東京を上回るという。そのせいでもないだろうが、寿司屋で食事をしたあと、お話ができるところに行きましょうとはるみが言ったら、根本勝巳はこのだだっ広くてやたら調度が凝った造りの喫茶店に案内してくれた。当然カクテルラウンジくらいに行くつもりだったはるみは、根本が酔い潰れたらどうしようとか、あんまりお金がかかると氏家さんの皺が増えるななどと要らぬ心配をしていたが、すべて杞憂に終わった。
「さっきも言いかけましたけど」はるみは、食事で中断した話を蒸し返した。「原田とは何回ほどお会いしたんでしょう」
「三回ですね。だいたいは、御馳走になって、すこし話をして、お土産をいただくという段取りでした」
ははあ、お土産ね。これでハイテク・リサーチと聞いてほいほいと根本がついて来たわけが分かった。
「失礼ですが、原田が黙ったままあのようになってしまいまして記録がないんですが、そのお土産と申しますのは如何様な……」
「最初はお菓子程度だったんだけど、あとは現金でね」と根本は悪びれずに答えた。「だけど、そんなに多額じゃないよ、三万が二回か」
金額の問題じゃない、その僅かな金額でこの男は何を売り渡したのだろう。それはあるいは中村の地位であり、原田の生命だったのかも知れない。
「僕も最初は断ったんだけどね、原田さんがこれは調査協力のお礼だし、ハイテク・リサーチはその辺はきちんとしてるんだからって強く言うもんでね」
調査には時折現金が物を言うのは事実だった。だが、このように特定の個人に定期的に金を与えるのは例外に属する。
「それは、根本さんが提供する情報の報酬としてでしょうね」
「そう考えていいんじゃないの。僕はただ取り留めもなくお喋りしてただけだけど」
「どういった内容を話されたか、記憶がございますか」
「えーっ、おたくら聞いてないの」
「実は彼もまだ報告書としてまとめていなかったらしく、いくつか不明の点がございまして」
「そうか、大変だな」と根本は他人事のように言った。いずれ警察が自分のところまで事情聴取に訪れることも予想していないらしい。「はじめはね、やっぱりあれよ、平田の事件のこと」
「春に起きた通り魔殺人ですね」
「うん、うちの会社はもう関係ないの一点張りで逃げたけどね、平田がちょっとおかしいってのは中村部長はじめ、開発部で知らない奴はいなかったからね」
「おかしいと言うと、精神病のことでしょうか」
根本は手を振った。
「違うんだよね、精神科にもかかったんだけど、医者が分かることなら、薬で何とかなるだろう。だけど、どうもはっきりとはしなかったみたいでね」
「病院には定期的に行ってたのでしょうか」
「部長が親身になってね、病院にも連れてってやってたし、地方出身だから寮に入ってたんだけど、自分ちの近くにアパートを世話してやったし。だからあんなことになって、一番こたえたのは部長じゃないかな」
「そうでしたか。……それで原田にはどのように話されました」
「原田さんはね、平田が住んでいた住所と、かかった病院を知りたがってたよ」
はるみは頷いた。原田も平田の発作の原因について疑問を抱いたに違いない。
「それは根本さんも、ご存じだったんですか」
「住居表示ははっきりとは知らないが、場所は知ってる。彼がサービスに転出してからも、僕ら交替で彼のアパートを訪ねてたからな」
「それは監視という意味でしょうか」
「というより、自殺でもするんじゃないかと心配でね。情緒不安定だし」
はるみはその言葉に少し疑問を感じた。情緒不安定とノイローゼと鬱病とは全て別の症状の筈だ。それを根本は、故意か無知のせいか、混同している。ましてそれらが、幻覚や凶暴発作に至るというのは頷けない。やはり平田を診察した医師に一度会う必要がある。
「わたしにも病院と、平田さんがおられた場所を教えてください」はるみは真剣な表情で言った。「実はわたし、平田さんの最期に立ち会っているんです」
根本はあっと息を呑んだ。今の今まで気付かなかったらしい。
「そうか、おたく、あのときの……」
「ですから、平田さんにしても、原田さんにしても、わたし、なんとなく責任を感じてるんです。どうか協力してください」
「まあ、どうせ一度は他人に言ったことだからいいけどね。病院は、仙台じゃないんだ。鴬沢のね、部長の親戚がやってる個人病院で、名前は忘れたけど、電話帳でも見りゃすぐわかるよ。ちょっとこぎれいな療養所も併設してる。最近は老人医療でも宣伝してるよ」
「鴬沢というと、細倉……」
「そう、よく知ってるね。あ、原田さん、あのあたりだったっけ、亡くなったの」
はるみは胃の腑が重くなった。少しずつ図式が見えて来たような気がする。その絵の中心にはどう考えても中村が座ることになる。根本は自分が上司の首を絞めていることも気付かぬげに、にやにやしながら続けた。
「平田もね、仕事し過ぎだって。おかしくなる直前は会社に泊まり込んだりしてたし、部長だって責任感じるわけさ。あ、紙と鉛筆あるかな」
「平田さんのお仕事はなんでしたの」はるみは、手帳を一枚やぶって手渡しながら言った。
「そりゃ、開発部にいるときはSIVさ。今も開発部はほとんどSIV関係ばっかり」
「そうしますと、根本さんも」
「うん、僕はソフトのほうだけどね。Vニュースとテレビ受信の方を主にね」
「Vニュースと言いますと、新聞のことでしょうか」
「ああ、その計画も原田さんには教えてるよ。最後に会ったときかな」
この報告も原田は握り潰していたが、中村が何か隠しているという氏家真美の勘はほぼ正しかった。ただ、センテックスが目論んでいるのはアダルト路線ではなく、情報産業への進出だった。これを聞いて真美がどう出るか。はるみは、センテックスとの蜜月も終わりそうな気がした。
「そのほかに原田とはどのようなお話しをなさいました」
「あとはSIVの進捗状況とか、これからの予定とか。僕はその程度だな」と言って、根本は先程から書き込んでいた紙をはるみに返した。「−−これ、平田のアパートの場所ね。行ってもしょうがないと思うけどな」
「ありがとうございます。−−それで、原田にどなたかご紹介なさいませんでした?」
「うん、工場の人に話を聞きたいって言うから、西野さんって人をね。だけど、僕は同席していないから、その話の内容まではわからないよ」
ここで、もう一枚の名刺の主が分かったが、依然として名刺のないイニシャルについては闇の中だった。はるみは、聞くべきことはほぼ聞き出せたと判断した。
「最後にひとつ、質問させてください」はるみは期待もせずに訊いた。「井上弘志という名前に聞き覚えはありませんか」
「ああ、知ってるよ」と根本は事もなげに言った。
はるみは思わず身を乗り出した。「ご存じですか、どこで会われました」
「井上弘志でしょ、SIVの初期のレポートには必ずその名前が出てくるよ。社外秘のレポートだから、うちの社員だった筈だよ。だけど会ったことはないんだな。何年か前によそにスカウトされたらしい。僕は開発に回ってまだ二年だからね」
はるみは手を握り合わせた。それは兄の失踪以来初めて聞く消息だった。
「どなたか、開発部の古参の方はおられませんか。ぜひご紹介していただきたいのですけど」
根本は首を振った。「開発部はサイクルが短くてね、長くて三年で配置換えになる。きついからやめる人もいるし、結局部長に訊いた方が確実だな」
だが、その部長は井上弘志の存在を否定したのだ。はるみはこの会話を録音しておいて、中村部長の前でぶちまけてやればよかったと後悔していた。しかし、例えそうしたとしてもこの程度の話では証言としての価値も薄い。中村は、同名異人だよなどと白を切り、根本の首を切っておしまいにしてしまうだろう。
「実は、井上弘志は、行方不明になっているんです」
「へえ、そうなの」
「それから、平田さんも、SIVの開発に従事なさってましたね」
「ああ、そうだけど」
はるみは思い切って言ってみた。
「SIVには何か人体に悪影響を及ぼすことはないのでしょうか。ほかに、開発部で、ご病気の方はおられませんか」
「いるよ」と根本はあっさりと言った。はるみは、思わず身を乗り出した。
「僕だよ、僕」
そう言って根本は弾けるように笑い出した。はるみはあっけにとられてその口元を見た。
「はっは、仕事し過ぎのワーカホリック、それでも給料安い金欠病、転職情報誌を読み漁るとらばーゆ症候群、三重苦に喘いでるのよ、はっは」
それが根本流のお土産の催促だと悟るのにしばらく時間がかかった。はるみはハンドバッグを引き寄せ、用意しておいた五千円札入りの封筒を差し出した。根本は、あ、どうもと言ってそれを受け取り、中を確かめもせずにポケットにねじ込むと、じゃ用があるからと言ってさっさと席を立って行ってしまった。その素早さは、残されたはるみがしばらく茫然としたほどだった。
それからはるみは、根本の連絡先を聞いて置かなかったことに気付いた。またおふくろさんを装って会社に電話するのも嫌だなと思ってふと根本の残した紙に目を落とすと、平田のアパートの地図の下のほうに何か記されている。手にとって見ると、そこにはまるまっちい字で、『根本君のTelでーす☆』とあり、それに続けて番号が書かれていた。
はるみは思わず総毛立った。