17
 
 山中百合は自分でも明るい性格だと思っているし、事実百合のアパートには気のあった同僚や隣近所の同年代の女性がよく遊びに来た。そんなときはお酒やおつまみを用意して、自分も楽しみ、また友人たちが遠慮をしていると気分をほぐしてやったり、脅したり透かしたりして結局は飲ませて歌わせてしまうのだった。それだけ騒いでも、近所の者が交替で訪れているのだから、苦情を言い立てる者もいなかった。
 しかし、原田俊一郎と付き合うようになって百合の性格が変わったと、友人たちは噂し合うようになった。男ができたらそんなものさ、今に元どおりになるよと訳知り顔に言ってはみるものの、原田が同席しただけで居心地が悪くなってしまうのはいかんともしがたかった。そんなわけで、毎晩のように訪れては騒いでいた友人たちも一人また一人と足が遠のき、いつの間にかドアチャイムを押すのも原田だけになってしまった。
 百合にとって原田は初めのうちは大勢いる友人たちの一人に過ぎなかった。しかも彼が自分に近づいて来たのは目的あってのことだというのも知っていた。百合はそんなことはちっとも気にしなかった。ただ、彼がほかの友人たちと打ち解けようとしないのには少し手を焼いた。
 百合はときどき、原田が僕を選ぶか、その他大勢を選ぶか、どっちかにしてくれと言ってくれればよかったのにと思う。訊かれればためらいなく百合は答えただろう。−−はい、さようならと。
 百合は別に原田を愛していたわけではない。気がついたらいつの間にか回りに原田しかいなかったのだ。だから、原田が身体を求めてきたときも、まあしょうがないかと思って抱かれた。もっともそれはたった一回だけだった。少なくとも自分ではそう思っている。あれは六月頃だったろうか、仙台にいた原田から、出張で来てるんだけど遊びに来ないかなどとおよそ非常識な電話がかかった。
 −−ばっかじゃない、と百合は言った。氏家さんにばれたらあっと言う間に首よ。
 −−週末でもこっちは仕事してるんだから大丈夫。それより、いいもの見せてやるから絶対来いよな。
 そう言われてうかうか行くところが、わたしの弱いところよね、と百合は頭を抱える。目の前のグラスには、以前はウイスキーのお仲間とされていたスピリッツがなみなみと満たされていた。百合はそれを手にとって、噎せもせずこくんこくんと飲んだ。ああ、わたしの弱さ。自分がアルコール依存症、悪くするとアルコール中毒になりかかっているのは承知している。しかし、他に慰めるすべをしらない。こんな生活を送るようになってしまったのも多分原田のせいなのだろう。だが、その原田も死んでしまった。彼の死によって呪縛から解き放たれるかと思ったが、事態は一層悪くなるばかりだった。
 きっと十一月一日には、と百合は呟く。だが、十一月一日に何が予定されていたのか、どうしても思い出せない。それは幽霊に追われながら足が金縛りになる、幼いころの悪夢のようでもあった。
 仙台のホテルで、原田は妙な機械をバッグから取り出して、百合の顔に掛けさせた。百合がなにこれかっこいいなどとはしゃいでいると、突然目の前に映像が炸裂した。百合は思わず声をあげていた。原田はすぐに機械を止めて、どうだと言った。
 −−止めないで、続けて、と百合は言った。
 −−おや、お気に入りだな、と言って原田はポーズを解除した。
 それは、百合が小学生の時に見て、その後テレビでも何度か見た映画−−スターウォーズだった。しかし、画像も音声も立体処理され、しかもノイズを除去したそれは全く新鮮に見えた。百合はレイアに感情移入し、ソロを愛し、ベイダーを憎み、宇宙を駆け巡り、泣いて笑って、映画が終わって原田にベッドに押し倒されてからもなお意識はファルコン号の中にあった。
 原田は事が済むと、どうだったと百合に訊いた。百合はそれが映画のことなのかセックスのことなのか分からずに、曖昧に頷いた。原田はそうだろうな、あのときはべろんべろんだったからとわけの分からないことを言って、それからその機械を保管しておいてくれと百合に頼んだ。
 −−えっ、わたし持ってていいの、と百合は有頂天になった。
 −−いいけど、機械だけだぜ。ディスクはおれが持ってる。
 −−けち、それじゃ見れないじゃないの。
 −−勝手に見て壊されでもしたら大変だ。まだ世界に数台しかないんだから。おれが行くときはディスクを持ってってやるから楽しみにしてなって。
 原田はああ言ったが、今考えると百合が他の友人たちに見せびらかすのを恐れたのだろう。どうせその頃にはアパートを訪れる人もまばらにはなっていたのだが。
 そして百合は原田の訪れを待つ生活に入った。原田が来ると百合は引ったくるようにディスクを受け取り、すぐに機械の醸し出す映像世界の住人となった。そのディスクは前に見た物もあれば、新しい番組もあり、また映画とは限らずニュースを編集したような物もあった。百合はどんなものでも快く受け入れた。
 原田は、ソファにもたれて陶酔状態となっている百合を眺めるだけで満足しているらしく、あれ以来百合を抱こうとはしなかった。百合は今になって、それも一つの愛の形なのかもしれないと思うことがある。しかしその頃は、仙台に出張とか仕事の都合とか、なかなか百合のところに来ようとしない原田を恨んだこともあった。誰にも教えないからと言ってせめてディスクを置いていってくれるように何度も頼んだが、原田は頑として拒否した。あれはたぶん、自分のいないところで百合が陶酔状態に入るのが堪えられなかったのだろう。それは一種の嫉妬と言っていいかもしれない。百合に快楽を提供する機械に対してのやきもち。その機械こそが例のSIV、わたしがセンテックスで耳に挟んで原田に伝えたそのものだということさえわたしは知らなかったのに、と百合は苦笑した。
 百合はディスクを持って来る原田を待ち焦がれ、ディスクがないときはつい朝から酒に手を出すようになった。そして、勤めもやめてしまった。
 それにしても原田はディスクをどこに隠したのだろう。ああ、SIVが見たい。
 原田の会社の机の捜索は失敗に終わった。てっきりディスクは会社に置いているものと思ったのに。もしかすると、ロッカーの中かもしれない。だからと言って男子更衣室に入るほどの勇気はなかった。
 会社じゃなければ自宅だろうと見当をつけて、はるばる世田谷に引っ越し、結婚の口約束もしてましたと長男の死を悲しむ両親に取り入った。そして、思い出を語りたいのお線香をあげたいのと理由をつけて日参し、うまく言いくるめて遺品の整理に立ち会ったまでは上出来だった。しかし、いくら捜してもディスクはおろか日記さえ見付けることはできなかった。出てきた写真アルバムを手に、思い出に何枚かどうですかと父親が言った。百合は鄭重にお断りした。そうですね、あなたの人生はこれからですものねと母親が口を出した。
 わたしの人生は、これからだと言うのだ。あいつらは。ディスクのない人生なんて意味がないのに。
 そして、ようやく百合は思い出した。十一月一日はSIVの発売日だ。当然ディスクも同時発売になる。その日まで、なんとしても生きなくては。こんな大事なことを忘れるなんて。もっとも近頃とっても忘れっぽくなっている。どうして原田が死んだのかも油断をすると忘れていることに気付く。
 百合はグラスを傾けた。お酒は少しは欲求を鎮めてくれる。待つのはあと一か月と何日だったろう。それまでに何本のボトルを空にすればいいのだろう。
 
 氏家真美は興信所の報告を前にして考えこんでいた。いつも調査部が使っている興信所は避けて、別のところをタウンページで選んだ。そこに依頼したのは、山中百合の転居先と、生活状況の調査だった。一週間も経たずに初期調査は済み、さらに続行するかどうかは報告書を検討してから返事することになっていた。
 百合の転居先は、予想どおり原田の家の近くだった。思い出を断ちがたくというわけかしら、と真美は皮肉っぽく思った。報告によれば、百合はしげしげと原田宅を訪れているという。
 百合さん、やることが見え見えだわよ。しかし、原田が自宅にもディスクを置いていないという確信はなかった。もしあるのなら、人手に渡る前に回収しなくては、ハイテク・リサーチの信用問題となる。原田の両親にはそれらしいものを見付けたら、会社の品であるから返却してくれるようくれぐれも頼んではあるが、長男を失ったショックがまだ尾を引いているらしく、なんとなく頼りないのはいかんともし難い。
 頼りないと言えば、わたしだって相当頼りないわよ、と真美は思う。仙台のはるみからは昨日電話があった。真美は、はるみの話を聞いて、どうしても結論を下すことができなかった。
 あらゆる状況はいよいよ中村に不利になりつつあるという。
 −−わたし、刑事に今まで調べたことを言おうと思います。そのために、最悪の事態を迎えるかも知れませんが、氏家さん、構いませんか。
 言ってくれるわね、と真美は思う。はるみも強くなったもんだ。ハイテク・リサーチに来たときはほんのねんねだったのに。去年大阪に出張に出してやったら殺人に巻き込まれ、それでずいぶん成長したと思ったが、こんどのこれでも進境著しい。人を鍛えるには殺人が一番、今後各大学では殺人講座を設置することが望ましい。
 馬鹿なことを考えている間に時間はどんどん経っていく。今までこんなことはなかった。つまり、あちらが成長した分、こちらは老化が進んだということか。
 −−一日だけ待って、と真美は電話口ではるみに頼むようにして言った。いろいろ考えてみるから。
 考えると言っても、この有様では時間の浪費に外ならないし、はるみに反論する材料も有りはしない。あるのは、あの人に限ってという、およそあてにならない個人的な勘だけだった。そして、それは誰か逮捕されるたびに、回りの者が口々に繰り返す決まり文句であることぐらい百も承知だった。
 もし、あれが自分の亭主だったら、とことん頑張るのだろう。それをしないのは、心の奥底では既に中村を見放しているからかも知れない。わたしは結局彼を愛していたわけではないのか、と真美は自問を続け、こめかみを揉みほぐす。どうしてこう思考が進まないのだろう。ちょっと気分転換にあれでも見てみようか。真美は咳ばらいしてその誘惑を退ける。
 ぐずぐずと引き延ばしていたが、とうとう今日、市販型のSIVを栗駒署宛に宅配便で送った。これで警察は原田の机から押収したディスクを見ることができる。それがよい結果を齎すとは、もはや考えられない。中村の乗った車は坂道を転げ落ちつつあって、もはや歯止めも効かないのかもしれない。
 中村に電話をしようかとは何度も考えた。だが、彼はいつもの調子で取り合おうとしないだろう。それを説得できる自信もなければ、絶対に無実だという確信もない。中村がときどきちらりと見せる奇妙な冷たさは、真美に一抹の疑いを残している。
 真美は決断を下さなければならない立場にいる自分が恨めしかった。中村のことも、百合のことも、なぜ傍観者でいられなかったのだろう。
 

NEXT BACK HOME