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 SIVの発売までわずか一週間を残すだけとなり、ハイテク・リサーチもセンテックスも忙しさに沸き返るような状態だった。そんな中で、井上はるみだけはSIVチームから外れ、山中百合の八月十六日の足取りを再現していた。いくら氏家真美の頼みとは言え、この時期に会社を留守にするのは気が進まなかった。次第に自分が真美の私兵になって行くような気がする。去年まではそのように個人的に信頼され、気に入られるのは喜びだったのだが、近頃はそういった裏の仕事よりも、本来のハイテク・リサーチの仕事を任せて欲しいと思い始めていた。
 しかし、今度の場合はやむを得ないだろう。真美の愛人が逮捕され、それが無実の罪かもしれないというのだから。しかも、そのかわりの下手人は、ハイテク・リサーチからセンテックスに派遣した社員というのだから、念が入っている。
 −−はるみ、お願い。あんただけが頼りなの、と真美は例の手で来た。警察は警察、あんたは自分の目で、もう一度栗駒から京都まで行ってみて。本当のことが知りたいのよ。
 そういうわけで、はるみは警察にも隠れて細倉に行き、タクシーを捕まえたり、飛行機に飛び乗ったり、京都から大原まで行ってみたり、はた目にはなかなか優雅で有意義な秋の日を過ごしていた。
 山中百合が捜査員二名に付き添われ、栗駒署に出頭したのは、十月二十六日だった。あっちは寒いからと発つときに言われ、厚手のブレザーを羽織っていたが、思い出したように強い日差しの照りつける日で、百合はブレザーを脱いで腕に抱えていた。身の回りの品を入れたボストンバッグは川島が持った。百合がそのバッグに着替えや洗面道具なども入れるのを見て、覚悟を決めているなと、千葉は思った。
 栗駒署に着くと、直ちに千葉刑事の主導で取調べに移った。千葉の予想どおり、百合はためらいもなく、自分から供述を始めた。その内容はほぼ千葉の推定通りと言って良かった。ただ、犯行時のことについては、良く思い出せないと言うような表現をした。
 
 −−わたし、十六日から京都に吉井さんと旅行するって前々から言ってたのに、原田さんは、その日になって仙台から電話を掛けてきて、鳴子のホテルを取ったから来いって言うの。来たら、新しいSIVのディスクをくれるからって。なんてわがままなんだろうって思ったけど、それを言われると、わたしは駄目だったわ。吉井さんには、急用であとから追っかけるからって言って、待ち合わせ場所の細倉の鉱山資料館に行ったの。−−うん、中には入らなかった。原田さんは駐車場で待ってて、わたしが来たらすぐに車に乗せてくれたから。そして、ちょっとドライブしよう。死体の発見された洞窟なんて、夏向きだろうって言ったの。わたしは、そんなのいやだ、ディスクだけ貰ったらすぐにでも京都に行きたいって言ったのに、そう言うなよ、お前と同じ境遇の奴に手ぐらい合わせろと言って、山道のほうに行ったわ。そこは、地元の小学生に聞いたって。死体を発見した男の子だって。で、そこまで行ったけど入り口もふさがってるし、どうすんのって言ったら、じゃあ、鳴子に行こうって、自分の予定を通そうとするの。わたしの言うことを聞いてくれやしない。ディスクはどこって聞いても、あした中村さんと会ってもらうことになってる、今ここにはないってそう言うのよ。だから、もう、わたしはわたし、あなたとはもう別れたいって言ったら、そんなことはできるはずがない、お前はSIVのディスクがなければ生きて行けないってわたしのことを軽蔑したようにいうの。わたしをそんなにしたのは、あいつなのに。だから、包丁で、胸を刺した。え、本当に、わたしがやったのかしら。やれ、というような声を聞いたような気がするけど。わかんない。でも、きっとわたしがやったのよね。気が付いたら、あの人、動かなくなってた。血も出なかったのに。−−包丁は、わたしのじゃないよ。原田さんが持ってたの。一番町のなんとかって店で買ったんだって。人殺しのあったお店だって。なんでも知ってる証拠に中村さんに見せてやるんだって笑ってたよ、あの人。わたしが包丁を手にとってもまだ笑ってた。冗談だと思っていたんだ。わたしは包丁持ったら、わたしがちょうどSIVのなかの登場人物のような気がして、監督がはいスタートって言ったから、こうやって……ああ、あの人、死んだときも笑ってた。信じられないって感じで。それから、こんなとき、映画でやるように指紋を拭いて回って、なにしろわたしは冷静な殺し屋なんだから。うん、電子手帳はね、ディスクの隠し場所がメモしてあるかと思って頂いたの。でも、ぜんぜん中身は読めなかったけどね。あれを氏家さんに預けたのは、もうどうなっても良かったから。……それでね、包丁はハンケチでくるんでバッグに突っ込んで、歩いて細倉マインパークの駅まで行って、電車に乗った。石越っていったかな、終点からはタクシーで空港まで行ったら、大阪行最終便にキャンセルがあって、なんとか乗れたの。包丁は、ジーンズのポケットに入れて通ったわ。薄手のブルゾンを羽織ってたから、外からは見えないし。え、金属探知機は鳴らないわよ、あれ、セラミックスの包丁だもの。うん、まだちゃんとあるわよ。引っ越すときに吉井さんに上げたから。先っぽすこし欠けたけど、お刺身切るにはいいからって言って。高いんだぞって言ったら、大事にするって言ってた。
 
 一日目の供述だけで、千葉の疑問はあらかた解決した。まず、マサルが細倉に放置されていた原田の死体を発見したのは、決して偶然ではなかった。原田は、今年の四月に廃坑で発見された死体もセンテックスに関係があると当たりをつけて、発見者のマサルの住所を調べその場所を聞きだしたのだろう。マサルは四日ほどして、気になってたまらず廃坑まで出掛けて、死んだ原田を乗せた車を見付けたのだ。
 それから、凶器の行方。千葉は解剖調書にあった、肋骨の傷を思い出した。骨の剥離片は保存してあるはずだ。包丁の先端が欠けたというなら、その中に破片が紛れ込んでいるだろう。金属ではないだけに肉眼では分からなかったのだろうが、機械で分析すれば、骨の成分とセラミックスの成分は分離できる。その材質と、もと隣人が、現在愛用している包丁の材質が一致すれば動かぬ証拠となる。
 それから、殺人の動機。
 千葉は、うつむいている山中百合の肩に、やさしく手を掛けてやりたいのを、辛うじてこらえた。
 
 山中百合はそのまま、栗駒署に逮捕拘留された。取り調べは翌日も引き続き行われ、供述は詳細にわたり、容疑事実はほぼ確定した。その日の夕刻、千葉は古川拘置所に、中村を訪ねた。中村が、職員に伴われて接見室に現れたとき、薄暗い電灯の下で千葉は煙草をふかしていた。千葉は逮捕後の取り調べには参加していなかったから、中村はしばらく顔を思い出せずにいたが、やがて仙台で最初に庄子と共に聴取に現れた刑事の記憶が蘇った。
「ああ、あのときの」
「あの、田舎刑事さ」
「そんなことは思ってませんよ。で、ご用件は」
「そんなに急ぐなよ、忙しい身でもないだろう」
「これは、取り調べじゃないんでしょう」
「単なる面会だよ。ひとつ、訊きたくてね。あんた、原田を刺したときの凶器は何だって言ってたかな」
「登山ナイフ」
「それは、鋼かな、ステンレスかな」
 中村は相手の真意を図るようにすこし考えてから言った。
「ナイフは鋼鉄だ」
「はずれだよ、ステンレスの歯こぼれが体内に見つかった」
「じゃあ、勘違いだ。最近の物だから、ステンレスだったんだろう。どっちだって同じだ」
「中村さんよ、あんたはよくよくの嘘つきだな。正解はどっちでもないんだよ。ところで、山中百合が自白したよ。それでもまだ罪をかぶっていい子になってるつもりか」
「かぶってる訳じゃない、ぼくがやったんだから。だいたい山中って誰ですか」
「いい加減にしろよ。山中の代わりにあんたが無罪放免になるのは決まったようなもんだ。あんたの目論見通りにな。−−あんた、捕まっても、のほほんとしていられたのは、真犯人を知っていたからじゃねえのか。もし、警察が見付けられなかったら、折りを見て、恐れながらとチクるつもりだったんだろう。しかも今までそれを言わずにいたのは、山中百合を庇っていたわけでもなんでもない、単に時間稼ぎをしていただけだ。SIVが発売されるまでの時間をな。−−どうしました、急に真面目な顔をして。なるほどそのくらい男前になると、氏家女史とお似合いですな」
「何を言い出すやら。彼女は関係ありませんよ」
「ほう、そうですか。−−しかし、あんたまで無関係だとは言わせない。逮捕された上にデタラメの自白をしてまで、あんたが一体なにを隠そうとしたのか、おれもない知恵を絞って考えてみたよ。あんたが恐れていたのは、SIVの発売以前に山中が逮捕されて、あらぬことを喋りだすことじゃないのか。例えば、SIVには習慣性があるとか、妄想を起こす作用があるとか。そんな評判が立った日には、手塩に掛けた新製品がおじゃんだもんなあ」
「何を証拠にそんな言い掛かりを……」
「おいおい、開発責任者がそんなことじゃ困るな。部外者のおれでも知っていることを。証拠は、山中百合の供述と、それに原田が持っていたSIVディスクさ。その一枚に、例の平田がにこにこしながら出演していたな。残念なことに後半では禁断症状で鬼のような顔になっていたが。まあ、あれが素人芝居だと言いたいなら、そう言っているがいいさ。おれも法廷に出すつもりはねえよ。だが、あれに写っていることは事実だと思っている。あれは平田が自分の身体を実験台にして行った実験記録だ。SIVを使った、暗示効果の実験。……ほら、映画のフィルムのところどころに商品名を入れると、観客が映画を見終わったあと、それを買うって話があるだろう。サブリミナルとかつったよな。SIVでコマーシャルを扱ったら、効果はそれ以上だってな。しかも、幻覚とSIVに対する禁断症状のおまけ付きだ。……おっとこりゃあ釈迦に説法だった。あんたが指示した実験だったよな。だけど、あのディスクが原田の手に入ったときはあんたも焦ったろうな。あんたの部下が、原田にそれをいくらで売ったか知ってるか。わずか二万円だよ。金に困っている訳でもない、地元の一流企業の社員がだよ。面白半分だったのか、金のためならなんでもやるのか近頃の若い奴は理解に苦しむわ、全く。しかし、あんたも人が悪いよな。それをねたにゆすられて、はいはいとSIVの機械をくれてやるんだもんな。あの平田先生の愛用機を。……あんたが原田に渡した機械、ハイテク・リサーチでみせてもらったよ。平田のディスクに出て来たやつと同じ物だっつうことくらい、素人目にもすぐ分かったな。平田はそれを掛けて実験を繰り返し、最後には狂ってしまった。あんた、それを原田に与えたんだ。原田が狂ってしまうか、狂わないまでも習慣性に染まってくれれば、自由にコントロールできるからな。ところが敵もさる者、すぐにそのからくりを見破ると、そのSIVを山中に預けた。原田は、自分では決して見ようともしなかったそうだな。あんたから定期的に手に入れていたディスクは、いつも、山中が見ていたっつうぞ。そして原田はそれをじっと観察していた。もし、山中が狂ってくれたら、あんたをゆする材料がまた増えるからだ。さぞや楽しい実験観察だったろうよ」
「原田にSIVを渡したことは認めますよ。しかし、あれは、モニターを委嘱しただけのことで−−」
「まだそんなことを言ってんのか。あんただって、専ら山中百合が見てたってのは知ってたんじゃねえのか。山中が言ってたぜ。好みを原田に言うと、その通りの物が届けられたって。まあ、どこの誰かまでは知らなかったとしても、原田の女が見ていたってことくらいは見当ついたろう。原田が、『愛と哀しみのなんとか』だのアニメだのそうそう欲しがるとは思えないもんな。あんた、それを知って、ディスクに細工しなかったか」
「ずいぶん想像力の豊かな−−」
「田舎刑事だなってか。まあ、おれの作ったおとぎ話だと思って聞いてくれや。こっちだってこんな話を署長に持って行ったら、おつむを疑われて休職させられるのがオチだっちゃ。あんたしか聞いてくれる相手がいねえんだよ。安心したか。だけど、田舎刑事にも五分の魂はあるのさ。山中百合は、絶対に心神喪失で不起訴に持ち込んでやる。あんたも賛成してくれるだろう? どうした、あまり気に入らないようだな」
「おれのことはいいから、言いたいことを言ったらどうです」
「そうだな、こんなとこじゃないか。……SIVの副作用で幻覚や習慣性に染まった常習者は、特に暗示に掛かりやすいというのは、平田で証明済みだ。だから、もし、原田に渡すディスクに暗示信号を紛れ込ませておけば、うまくいけば原田の女が引っ掛かってくれる。駄目でもともとさ。どういう暗示かなんて、言うだけ野暮だよな。結果を見れば誰でも推測がつくっちゃ」
「証拠は−−」
「証拠なんかねえよ」千葉は開き直るように言った。「SIVのいいとこは、三回も見たらディスクがぱあになることだ。山中は、もらったディスクは汚れて機械がエラーを出すまで繰り返し掛けたそうだからな。なんにも残っちゃいねえ。残っていたところで専門家でなければ分かるはずがねえし、あんたが専門家の親玉なんだから、こりゃお手上げだよ。……だけどあんたら、ひとりの女を何だと思ってるんだ。原田は、山中を狂わせてゆすりの材料にしようとした。あんたはあんたで、原田を殺す暗示を山中に掛けようとした。原田が殺されたのは自業自得だよ。ところで、お次はあんただ。原田殺しでは大手を振って出て行けるかもしれないが、細倉の廃坑で見つかった死体、あれはおれの担当でね、あれもどうやらセンテックスに関わりそうな気がするんだ」
「あんな古い死体、なんの関係があるんだ。おそらく、井上はるみが駆け込み訴えでもしたんだろうが、おれに言わせれば、あの娘こそ妄想にとらわれてますよ」
 千葉は、中村の反論にかまわず続けた。
「それから、あの前評判の高いSIVだよ。あんたは、市販タイプの物は、副作用がないから大丈夫と言い張ってるそうだな」
「SIVには、手を出さないでくれよ」と中村は言った。「副作用なんかないのは本当だ。平田は精神分裂病だった。山中なんて知らない。何か、証拠があるんですか」
「ほほう、にわかにあわて出しましたな。そのあたりが、中村さんの弱点ってわけか。よく覚えておこう」
「何を言うんだ」と言って中村は立ち上がった。「平田を病院に連れてったのは事実だ。名前は偽名を使ったし、保険も使わなかったから、記録がないかもしれないが。それでも、専門医が診ても、分裂病としか診断できなかった」
「そりゃあ、安心したろう」と千葉もゆっくりと立ち上がって言った。「証拠がないってのはいいことだよな。おれも、この年になって勉強させてもらったよ。まあ、縁があったら、娑婆でまた会おうや」
 千葉がドアノブに手を掛けると、中村が押し出すように言った。「刑事さん、あんた、おれに何か、個人的に含むところでもあるのか」
 千葉の肩が一瞬びくりと動いた。だが千葉は、中村の燃えるような視線を背中に感じながら、黙って接見室をあとにした。
 
 十月三十日、送検された山中百合の取り調べが一段落し、ひきつづいて、拘留中の中村が検事の前に呼び出された。検事、事務官の他に、庄子警部補と千葉部長刑事が同席していた。担当検事は、興味を失ったような声で、中村に言った。
「どう、調子は。今日で拘留期限が切れるんだが、もう一〇日延長してもいいんだ。きみはどう思う」
「いろいろご迷惑掛けて申し訳ありませんでした」と中村は神妙に言った。「きょうは包み隠さず申し上げます。今までいろいろ矛盾したことを申し上げていたのは、無実の罪に問われた恐ろしさの余り、神経が参りかけたせいです。真犯人が捕まったと弁護士さんからも聞きましたし、今は明鏡止水の心境です」
「それは結構だね。じゃ、八月十六日と十七日の行動を、包み隠さず聞かせて貰おうか」
「その前にひとつお話しして置きたいことがあります。故人のことをあれこれ言うのは、気が咎めないでもないのですが、あの殺された原田は悪辣な男で、ささいなことをねたにわたしをゆすっておりました。……つまり、センテックスの社員がちょっと精神に異常をきたして引き起こした通り魔事件を、スキャンダルに仕立てられたくなかったら、金を払えとか、わたしが、東京で遊んだことを、女房に知られたくなかったら、会社の機密を洩らせなどと、堂々と要求していたのです。……ですから、山中と申しましたか、彼女も原田を手に掛けたのには、恐らく止むに止まれぬ事情があったもと思います。どうぞ寛大な処置をお願いします」
 なるほど、捨て身の戦術で来たか、と千葉は思った。いずれ知られることなら自分から喋った方がいいというわけだな。
 千葉は無表情を作って、中村の額のあたりを見ている。中村はその視線を捉えようとしていた。
「それは分かった」と検事が言った。「そんなことだろうと思った。動機があるだけに、ぼくらもきみには振り回されたよ」
「すみませんでした。……それで、十六日ですが、新幹線のくりこま高原駅で、原田と待ち合わせて、細倉に行きました。それは、事実です。以前刑事さんがおっしゃったように、確かに途中で金成のドライブインにもたちよっております。ハンドルもわたしが握りました。ですが、その日は、細倉の鉱山資料館で別れて、わたしは仙台に戻りました。決して、原田を監禁したり、殺害したりはしておりません」
 検事はちらりと庄子のほうを見た。庄子も無表情を作る手際は人後に落ちない。検事は静かに訊いた。
「なぜ、被害者と一緒に、そんなところまで行くことになったんだね」
「原田は女友達と、鳴子に行くついでに、栗駒クリニックに立ち寄る予定だと言っていました」
「それは、確か精神科の……」
「ええ、この春に事件を起こしたわたしの部下が、そこで診て貰っていたのですが、原田はそんな記録はないと言い出し、それじゃあ一緒に行って決着をつけようということになったのです。……ですが、結局は行きませんでした」
「どうして」
「わたしが、考えを変えたからです。あれこれつつかれるよりは、お金で解決しようと。それで道々話し合って、五〇万円と、SIVの発売用新作ディスクをまとめて渡し、今後わたしの前に現れないということで合意しました。ところが、翌日お金を作って、会社からディスクのコピーを持ちだし、受け渡し場所の細倉の鉱山資料館に行ったのですが、原田は来なかったのです。まさか、殺されていたとは思いませんでした。多分、連れの都合か何かで、真っすぐ帰ったか、もう一泊することにしたか、その辺だろうと思って、いずれ連絡して来るまで待とうと考えておりました」
「十七日、細倉の実家に立ち寄らなかったかね」
「実は、湯治に行ったおふくろから、プロパンの元栓を締めてなかったような気がする、古川工場に行くならちょっと足を伸ばしてくれと電話がありまして、ついででもあるし行ってみたんです。ちゃんと締めてありましたけど、なにしろ年寄りは心配性なもので」
 検事は、庄子警部補の顔を見た。何か訊きたいことがあるなら、今のうちだという意味だった。庄子は口を引き結んでかぶりを振った。そのかわりに千葉が表情を崩さぬまま口を出した。
「御苦労様でした。国に対して損害賠償を請求なさるなら、民事訴訟を起こされることです。……検事さん、中村さんの奥さんが、先ほどから見えられておりますが、もう一緒に帰って頂いてもいいんじゃないですか」
 検事は黙って事務官に頷いて見せた。事務官は、立ち上がって中村の腕をとり、別室に連れて行く。粗末な椅子に腰を掛けていた中村の妻が、夫の姿を見て音を立てて駆け寄った。
「良かった。……ようやく終わったのね」
「いや」と中村は呟くように言った。「戦いは、これからだ」
 

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