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 井上はるみは仙台中央署の係官に付き添われ、東北大学医学部の門をくぐった。案内された地下の霊安室は強い薬品臭が立ち込めていた。
「大丈夫ですか。ちょっと損壊がひどいですが」と係官が心配そうに訊いた。
 はるみは頷いて言った。
「兄が行方不明になってから何度か身元不明の仏様を見ておりますので」
 係官はそれなら、と言ってステンレスのロッカーを開け、ストレッチャーに乗せられた死体を引き出した。
「司法解剖に付されたため開腹して臓器類は切除していますが外見は変わっていないと思います。三十歳前後の男性、身長約170センチ。死後二年と見られていますが、高濃度の鉱泉に浸漬していたため屍蝋化して、胸から下はよく保存されています。残念なことに顔がね……」
 係官は死体を前にしているという気まずさを紛らせるためか頻りに話しかける。はるみは目の前の灰色に変色した身体を丹念に見たが、兄の手足の形やからだの特徴など覚えているはずもない。
「頭蓋骨及び上半身骨格、さらに下半身の肉体及び骨格に損傷なし。内臓の疾患及び損傷も特になし、か。要するに死因は今のところ不明です。手の部分も白骨化あるいは漂母皮形成のため指紋採取不可と……困りましたな。それから、虫垂も手術していないそうです。お兄さんは?」
 はるみは首を横に振った。
「そうですか、するとまだ可能性はありますね。−−お母さんなら子供のときお風呂に入れたりしたでしょうから、ほくろの場所とか分かることがあるんだけど、ご健在なら……」
「いえ、はやくに亡くしました」
「それはどうも……。じゃ、歯医者のカルテは取れますか」
「それも、以前に調べたのですが、あいにくよく分からないのです。というより、ほとんど歯医者さんにはかかっていなかったらしいんです」
「それだったら、歯が悪かったら別人ということになりますね」係官は手に持ったクリップボードに目を落とした。「うーん、故人の歯は処置済が二本、C1が二本、比較的良いほうと言えるでしょうが、さて、決め手となるとねえ、ご両親がご健在なら血液型から調べる手もあるんだが、せめてお父さんだけでも来ていただけますか」
「実は父も先年亡くなっております」
「それはまた」不幸な一家だなあと言う言葉を飲み込んで係官は言った。「それじゃ、妹さんでもないよりはましかな……一応採血して行ってください。照合結果は改めてお知らせします。その間、お兄さんの写真とか歯科のカルテとか、もしあったら集めて置いて下さい」
 係官は死体を再び冷蔵室にしまいこみ、はるみを促して部屋を出た。
 
 センテックス開発部長の中村の家は、仙台市北部の泉区にある。はるみは行き先を運転手に告げた後、タクシーに揺られながらぼんやりと兄の事を考えていた。あの頭だけが白骨化した変わり果てた姿は、兄なのだろうか。見せられた着衣も記憶にはないものだった。そもそも、五年前に何の前触れもなく消えた兄の姿を完全に思い出すのもすでに難しくなっている。
 兄の失踪の翌年には捜索に疲れたのか、父までも病に倒れこの世を去った。そして独りぼっちになってみると、自分の使命は兄を捜すことであると、はるみには思えた。しかし手掛かりは何も残されていなかった。はるみは思い付くままに私立探偵社のアルバイトを始めた。人探しの要領だけでも学ぼうと思ったのである。
 はるみは短期間内勤をしたあと、希望して現場調査に回った。もっとも昨今の探偵社では、浮気調査が大きな収入源だったし、経済調査は駆け出しに勤まる仕事ではない。はるみの仕事はホテルの外で張り込み、カメラを構える役だった。
 はるみが自分の仕事に疑問を持ち始めたころ、一組の男女を撮影する機会があった。男のほうは顔を隠して一目散に逃げたにもかかわらず、女性のほうはその場に残って、カメラを持っているはるみに、どうしてこんなつまらない仕事をしているのかとまじめな顔で訊いたものだ。それが氏家真美との出会いだった。
 真美ははるみをハイテク・リサーチに誘った。はるみに事情を聴いたうえで勧めたのだ。
 −−たぶん、お兄さんは企業戦争に巻き込まれたのね、と真美は言った。部屋からはノートとかパソコンとかもなくなってたんでしょう。なにか重要なこと研究してたんじゃない。それもどこかの企業から研究委託を受けていて、ライバル社に引き抜かれたとかね。だったら、ハイテク・リサーチで仕事したほうがいろんなメーカーに入り込めるし、お兄さんを見付ける可能性はあるわよ。あんなフォーカスごっこやってるよりあなたのためよ。
 とすると、わたしがハイテク・リサーチにはいれたのは兄貴のおかげか、とはるみは苦笑した。運転手が訝しげにルームミラーを覗いている。
 真美と出会ってはるみの人生は大きく転換した。ハイテク・リサーチではまず展示会のコンパニオンの仕事が与えられた。それは単なる飾りや添え物ではない。メーカーが新製品を発表する場で、機械やコンピュータのデモ運転から特長、納入実績まで客に説明する重要なポジションだった。はるみはここでさまざまな企業の顔を表も裏も知ることができた。そしてテクノロジーの先端知識も必要最低限ながら身につけることができた。兄を捜すといっても子供のお遊びのような探偵ごっこから、兄は何を研究していたのか、企業間の開発競争はどうなっているか、人材資源である学生、院生の就職状況はどうなっているか、そうしたもろもろのデータを根本的に検討できるまでになった。
 単なる駆け落ちだったりしたら怒るからね、とはるみは思った。ま、それならそれでもいいけどさ、父さんはともかく私にまで秘密なんて許せないわよ、絶対。
 そういう文句をぶつける相手もないまま五年が過ぎた。
 そして、はるみは思い出した。兄の研究室に一冊だけ残されたノートに書かれていた文字、PIV。そして先生方や同輩たちの言葉。
 −−井上君は画像処理の研究をしてましたけど、細かいことまではちょっと。彼、秘密主義でねえ。ウォークマンのビデオ版みたいなものだとは聞いたことがあるな。でもソニーも8ミリビデオのポータブル再生機は出す予定でしょ、それに勝てるかななんて言ったらつむじ曲げちゃってね、あ、こりゃ失礼。
 氏家真美は、センテックスがSIV、ステレオ・イメージ・ヴュアーを売り出すと言っていた。とすると、PIVはポータブル・イメージ・ヴュアーの略称ではないだろうか。この推測が正しいとすると、兄とセンテックスには何らかのつながりがある。
「運転手さん」と、はるみは声をかけた。「すみません、急用を思い出したの。仙台駅まで行っていただけます」
 運転手はえっと言って車を停めた。
「どこいくのっしゃ」
「土浦」
「今からだと常磐線はしばらくないかも知んねえな。新幹線で上野までいったん出て、戻んねっかなんね。それでも行きますか」
「ありがとう、お願いするわ」
 運転手はそんならと言って路地に入って方向転換し、もと来た道を戻り始めた。
 中村個人の調査は少し待って貰おう、とはるみは思った。もしかするとこちらが本命だ。ハイテク・リサーチにとっても、わたしにとっても。
 
 栗駒署の千葉部長刑事は仙台中央署に電話を入れた。一昨日持ち込んだ身元不明死体について何か判明したかを尋ねるためだった。「ああ、あれね」と中央署の刑事は言った。「解剖結果についてはファクスします。要は、身元も死因も不明。死後二年つうからまだそんなに古くはないけんど、わたしは悲観的な見方してますね。結局無縁仏になるんじゃないかな。……あっ、そうそう、今日、すげえ美人の子が来てたんだ」
 彼は受話器を覆って、おい、あれはどうなったんだと誰かに怒鳴った。相手が何か応答する声が聞こえる。二人はしばらく話し合っていたが何か卑猥な冗談が出たのか、笑い声が起きた。千葉がじりじりし始めたころ電話口に声がした。
「お待たせ。なんでも昨日のは東京の娘で、仙台には仕事で来てて、偶然ホテルにあった『河北』で読んだんだと。五年前行方不明になった兄さんに年格好が似てるから確認したいって来たんだけどね、やっぱしはっきりはしなかったみてえだね」
「そんな美人が来るんだったら、俺も行っときゃよかった」と千葉は話を合わせた。「それで、歯型とか何かなかったの」
「それがないのしゃ。仕方ないから採血して医学部で調べて貰ったけど、親と兄妹じゃ違うかんなあ。可能性は残るとしか言えないそうだ。二親とも亡くなったそうだしねえ」
 千葉は、またなんか分かったら知らせてほしいと言い置いて電話を切った。それから椅子にもたれて煙草に火を点けた。窓から見える栗駒山にはまだ雪が残っている。
 死体発見とほとんど同時に東京から現れた娘というのは何者だろうと千葉は考えていた。仙台の刑事は、偶然仕事でとか兄思いの妹とか言っていたが、千葉はこれまでの経験から犯罪には偶然や美談の入り込む余地のないことを嫌と言うほど思い知らされていた。
 例えばその女が心変わりした愛人を殺して廃坑に捨てたとしよう。東京に逃げたとしても、いつ死体が発見されるか心配で、いてもたってもいられない。それでわざわざ地元紙を購読して郵送させている。ある日ついに恐れていたことが起こる。馬鹿なガキが余計なことをして死体を発見するのだ。ここで犯罪者の心理としては二つに分かれる。さらに遠くに逃げ出したくなるか、あるいはなにか手掛かりを残してしまったのではないかと急に心配になるかだ。
 恐らくこの女の場合は後者のパターンだと千葉は思った。心配の余り、見え透いた作り話をでっちあげてでも死体を見に来ずにはいられなかったのだ。身元を証明する手掛かりがないと聞いて今頃は一安心しているだろう。住所氏名は中央署に残しているだろうが、それが真実である可能性は小さい。
 さて、どうしようか。千葉は続けて煙草に火を移した。これは単なるデカのカンというやつに過ぎない。人によっては一笑に付すだろう。だが聞く人が聞けば援助を惜しまぬはずだ。特に犯罪を憎み正義を愛する人が聞けば。
 千葉は煙草を揉み消して立ち上がり、署長室に向かった。説得できる自信はなかったが、叩き上げの現署長とは、一脈相通じる所があると思っていた。
 

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