5
 
 氏家真美が井上はるみからの電話を受けたのは午後八時を過ぎたころだった。
「ご自宅に一度電話したんですけど、まだ会社だったんですね」と、はるみは言った。
「うん、やりだしたら止まらなくなっちゃってね。明日一日で出せるトレードマークだけでも抑えるつもり。そっちは何か分かった?」
「実は、今、筑波なんです」
 予想外の言葉に真美は驚いた。
「それ、お兄さん関係なの」
 はるみは真美の語調に少したじろぎ、急いで言った。
「ええ、でも重要なことが分かりました。わたしの兄は自分が研究していた装置をPIVという略称で呼んでいたそうです」
「PIV……それ、ほんと?」
 はるみは電話であることも忘れて激しく頷いた。
「わたし、それがセンテックスのSIVの原型だと思います」
 真美は、ふーんと言って考え込む。
「あなた、これからの予定は」ややあって真美は訊いた。
「ここに泊まって明日仙台に戻ろうかと思ってますが」
「じゃ、こうしてちょうだい。宿はまだ取ってないでしょ。これからタクシーで代々木のわたしのうちまで来てくれる。高速使えば筑波から二時間もかからないと思うわ。いいかしら」
 そう言われて泣きをいれるはるみではなかった。
「分かりました。すぐ発ちます」
「疲れてるでしょうけどお願い。一人で待ってるから安心して。晩ご飯も用意しとくわね」
 はるみは明るく笑って電話を切った。
 
 翌日の真美の行動は素早かった。定時より早く出社すると、はるみから得た情報をもとに『携帯用立体視ビデオ装置』、『ポータブルゲームアタッチメント』など三本の特許のプランを書き上げ、原田が来ると直ちに、今日じゅうに出願するように命じて草稿を渡した。続いて映画配給会社に電話を入れ、携帯用ディスクタイプ映像ソフトの独占使用権に対する契約が結べるかどうか打診した。ビデオテープ及びレーザーディスクについては既存の契約が存在するが、形式をほかの物に限定すれば可能であるという返事だった。真美はハイテク・リサーチに対する契約交渉の優先権を認めさせ、今日中に担当者を派遣すると確約した。そして再びパソコンに向かい、『透過光型ディジタルディスク映像ソフト使用権に関する契約書』の草稿を書き上げ、一人の女子社員を呼び、相手担当者のアポイントメントを取ったうえで交渉に出向くように指示した。もちろん今日のところは締結するには及ばない、優先権を確定させればよいと付け加えるのを忘れなかった。
 そこで時計を見ると正午に近かった。真美はセンテックスに電話を入れた。今回は中村はすぐに電話口に出た。
「やあ、何年も会ってないような気がするなあ」と中村はのんびりと言った。「その後、お仕事のほうは順調ですか」
 誰か近くにいるな、と真美は思った。真美にしたところで、会社の電話で、今夜うちに泊まりに来てなどとは言えない。
「ええ、おかげさまで。例の件で打ち合わせしたいと存じますが、ご都合はいかがでしょうか」
「うん、今日はこっちもなんとかOKです。実はここんとこずっと会議やらなんやらで、帰りも遅くてね」
 これはよそに泊まったことの言訳らしい。言わずにいられないのがあの人の良いところね、と真美は思う。
「それじゃ、用意してお待ちしてますので」
 真美は簡単に言って電話を切った。天下のハイテク・リサーチ調査部だ。中には切れる部下もいるからうっかりしたことは言えない。仕事が一段落して、真美は急に空腹を覚えた。
 
 真美はキッチンで働きながら、二日も続けて人のために食事の用意をするのは何年ぶりかしらと考えていた。昨夜のはるみよりも今日の中村のほうが、多少内容がよいのは認めざるを得なかった。それが女の道だからなどと口ずさんでいると、ドアチャイムが鳴った。ドアを開けるとボストンバッグを提げて紙袋を抱いた中村が立っていた。
「ワインとレアチーズケーキを買って来た。はるみちゃんだったら大喜びだな」
「あなた、誰の嗜好にあわせてるの」
 数えるほどしか顔を合わせたことがないはずの若い部下の好みを、中村がしっかり覚えていることに、真美は軽い嫉妬を感じた。
「いやあ、でも君の好みって急に思い出せないんだよね。君、やっぱり根は古い女なんだな。自分の好きなものって口に出したことがないだろ」
「わたしはダイヤとかミンクが好き」
「早く上げてくれよ。腹が減ってるんだ。いい匂いがするじゃないか」
 中村は真美に紙袋を渡すと、押しのけるようにしてさっさと上がり込んだ。
 男という動物はどうしてすぐ馴れ馴れしくなってしまうのだろう、と紙袋を胸に抱きながら真美は思った。そりゃ馴れれば可愛いかもしれないが、緊張感が薄れて行く。そしていつの間にか世間の家庭の真似事を始めることになるのだろう。
 それでも真美は男の後を追ってキッチンに行った。
「今日のおかず、何? うわ、鯵の塩焼きに炒り豆腐じゃない。おれ、こういうの好きなんだよなあ。これでなめこ汁だったらもう泣いちゃうよ。えっ、そうなの。感激だなあ。その点、女房は全然駄目。得意料理はハンバーグとローストチキンてやがんの」
「悪口はいいから、手を洗って。お風呂はどうする」
「まず、めしにします」
 食事の間はテレビもつけて、世間話や人の噂をしながら至極穏当に時が過ぎた。最後に、持参したケーキまで平らげて、中村は風呂に入った。一緒に入ろうかと中村は言ったが、真美は丁重にお断りした。
 中村のために男物のパジャマを出してやりながら、真美は今でもかいがいしい妻になれる自分に苦笑した。もっとも、もはや誰とも結婚する気はなかった。ベッドメイトとして妻帯者を選ぶのはそういう事態になる恐れが少ないからでもあった。
 中村が出たあと、入れ替わりに真美は風呂に入った。一人暮らしに馴れてしまうと自分が女であることも忘れがちになる。女は男の視線があってこそ女の魅力を維持できる。真美がどんなかたちであれ恋人を絶やさない理由はそこにあった。そして女の魅力は仕事のうえでも大きな武器となる。真美はもうすぐ四十歳とは思えない均整の取れた肢体を丹念に洗った。
 真美がバスローブ姿であらわれると、中村は鼻を鳴らしながらやにわにむしゃぶりついて来た。
「これこれおじさん、どうしたの」
「けだものだもの」と中村はバスローブの中に顔を突っ込みながら言った。
 仕事の話をしたら二人の仲もこれで終わりになる可能性もあるな、と真美は思った。それならまあ、先にやっとこうか。
 真美は中村にヘッドロックを決めながら、寝室に導いた。
 
 仕事のことを忘れない点では中村もひけを取らない。真美のなかで果てて五分もたたないうちにベッドから抜け出し、ボストンバッグを引きずって戻って来た。
「ちょっと、パンツくらいはきなさいよ」真美もやむなく起き出して、パジャマにカーディガンを羽織りながら言った。
「なんだ、失神してたのかと思った」
「残念ながら不感症なの。その宝物は何よ」
「これがねえ、わが愛すべき新製品です。おれ、機械フェチなのかなあ、これに触ると勃起するんだよね。ほら、見てくれ」
「あなた、それでよく奥さんに捨てられないわね。ほら、パジャマ、そこに落ちてるよ」
 中村は不承不承衣服を身につけてから、バッグのジッパーを開き、慎重な手つきで小さな機械を取り出した。その形状は真美の想像通り、ヘッドセットと、ディスクマンに似た本体部から成っていた。「真美、ちょっとこっち来てくれる」
 中村は真美を呼んで、自分の前に座らせた。そして真美の頭にヘッドセットを載せてゴーグルを下ろす。真美はそれが全く視界の邪魔にならないのに少し驚いた。
「じっとしてて、そう、馴れないうちは頭を動かさない方がいい。──いくよ、スイッチ、オン!」
 とたんに真美の目の前で映像が弾けた。バック・トゥ・ザ・フューチャー・3のクライマックス、蒸気機関車の暴走シーンだった。真美は思わず声を上げた。
「何、これ、いやだ、動いてる」
「映画が動くのはあたりまえだろ。迫って来るというべきだな」と中村は得意げに言った。
「分かったわよ。でも、ちょっと怖いくらいの出来栄えね。−−うわあ」
「これが我が社の新製品、ステレオ・イメージ・ヴュアー、略称SIVです。ご感想は」
「うーん、参ったわね」
 それは真美の偽らざる本音だった。井上はるみや原田を使ってセンテックスの新製品を探り、大体のところを突き止めはしたが、実物は予想を遥かに越えた性能を有していた。
「よーし、氏家女史のお墨付きが出れば大丈夫だ。ではいくつか実験してみよう。ちょっと斜め上あたりを見てごらん」
 真美が言われた通り視線を上げると、途端に映像はかき消え、何の変哲もない部屋が現れた。急な変化にとまどって視線を戻すと、再び、機関車が走り始める。
「へえ、どうなってんの。これ、このゴーグルに映ってるんじゃないの。ホログラフィかしら」
 中村は満足そうに鼻をこすりながら説明を始めた。
「実はこれは今までの意味での『見る』という行為ではないんですよ。人がある物体を見た場合、視神経は、網膜に映った光の像をアナログからディジタルに変換して脳に送るわけだよね。このステレオ・イメージ・ヴュアーの場合は、視神経の入り口、つまり盲点の部分を狙って、微弱なレーザーでディジタル信号を直接送り込んでいるんだ。だから極めて鮮明な画像を送ることができるし、真っ暗闇の中でも見ることができる。それだけじゃなくて、さっきやったように視線を外せば、レーザーの狙いも外れて映像を目の前から消すこともできる。実際には、水晶体の動きをセンシングしているから、視線の動きはそこでも感知して同時にディスクをポーズしている」
「その機能は何のためなの」
「そりゃ、これを掛けたまま街を歩いたり、電車に乗ったり、必要なら仕事もできるように。さらに言えば、教育用にも使用できるし、角膜障害者でも見ることができるし、とにかく娯楽だけでなく情報も含めてメディアを変革する、ながら族待望のすぐれ物ですよ」
 へえっと真美は感心してヘッドセットを外した。
「あら、ちょっとめまいがするみたい」
「そう? まだちょっと軸がずれてるのかなあ。盲点の追尾が甘かったり、左右の信号にずれを生じたりすると船酔い症状を起こすことがあるんだ。ほとんど改良したはずだけど、君は敏感な体質なんだろうか」
「あわない人がいるっていうのは致命的よ」
「うん、もっと調べてみる。だけど、これ売れると思うだろ」
「思う思う。はまるわね」と真美はまじめな顔で言った。「ちょっと本体部を見せてよ。へえ、これがディスクなんだ」
「変わってるだろ。透過光型のディジタルディスクなんだ」
 やっぱりここで出て来たか、と真美は思った。はるみの兄、井上修一郎の研究していたポータブル・イメージ・ヴュアーの原理は残されていた。コンパクト・ディスクのように複雑な製造工程やプラスチックの基盤を必要としないディジタルディスク、それが修一郎のアイディアの根幹をなしていた。真美の手にしたそれは、直径八センチほどのポリエステルのフィルムにトナーを定着させたもののように見えた。
「小型ソノシートってところね」
「おいおい、そりゃ死語だ。せめてフロッピィと言ってくれ。これ一枚で約三十分プレイできる」
「映画なら四枚もいるの。ちょっと面倒ね」
「今はほとんど手作りだからな。写真製版の解像度は最終的にはその三倍まではあげられると思う。それならまあまあだろ」
「えっ、これ、写真製版なの。なら、コストは一枚十円くらいか、あきれた」
「そのかわりすぐに汚れるから、せいぜい三回くらいで使い捨てになるけどな。だけど、ほとんどのソフトはそれで十分だろ」
「そうね、安くて回転の早いほうが、ユーザーもメーカーも喜ぶでしょうね」
「ソフトの供給についても腹案があるんだ」中村はシートをプラスチックのケースにしまいながら言った。「映画のソフトは売値二百円程度、ビデオのレンタル料より安くして、本屋、煙草屋、その他どこでも買えるようにする。それからSIV新聞を毎日印刷する。これをキヨスクに置いて貰えば、通勤電車の中で、活字ではなく、動く映像の入ったニュースを読むことができる。もちろんランダムアクセスだから、興味のないページは飛ばせばいい。好きな人はエッチな記事だけ眺めていても隣の奴に覗かれる心配もない」
「なかなか身につまされる意見ね。しかも映像も入ってるんでしょ。朝からそんなのにのめりこんでて大丈夫かしら」
「それは個人の自由、おれなら一日のやる気が湧いてくるな。−−ま、それで最終的にはテレビ映像のチューナーも付くようにするつもりだ。家庭用のテレビは今後ケーブル化が進むだろう。となると、無線テレビの生き残る道はポータブルしかない。テレビ局の方から提携を申し入れてくると思うよ」
「これ、テレビ信号も受けられるの」
「まだそっちは開発中だけどね、テレビ信号をリアルタイムで立体化、ディジタル化することは可能だ。現に今見た映画にしたところで、市販のビデオテープからコンピュータで人工的に立体化しているんだから。まあ、専用カメラを使った方がきれいな絵になるだろうけどな」
 真美は溜息をついた。
「第一ラウンドは負けね」
「なんのことだ、そりゃあ」
「いいのいいの」と真美は手を振った。「ねえ、仕事の話は明日にしない? 表玄関からハイテク・リサーチに入って来てよ。正式な契約にしておきたいの。これは大きな商売になりそうだし」
「おれもそのほうがいいと思う。一度本社に行って、常務の許可を貰ってからそっちに行くわ。大キャンペーンをお願いするぜ」
「参考までにお聞きしますが、発売時期とお値段はいかほど」
「ヨンキューパーでどうだろう。発売は十一月をめざしているが、遅くとも歳末商戦には間に合わせたい。年内に五万台は売れるだろう」
 随分控えめな数字ね、と真美は思った。恐らく経営陣はその倍は売りたいところだろう。年末から来年にかけて、よそが追随商品を出すまでに百万台くらい行くかもしれない。とすると五百億、宣伝費一〇パーセントとして五十億、うちの取り分はそのまた二〇パーセントというところか、ソフトも扱えばさらに倍になると真美はすばやく胸算用をはじく。とたんに中村が真美を抱き上げた。真美は思わず声を上げて、中村の頭をぴちゃぴちゃ叩いた。
「なにすんのよ、機械フェチはロボットでも抱いてりゃいいのよ」
「まあ、たまにはなま物もいいもんだ」
 中村は真美をベッドに放りあげて挑みかかった。真美は中村の身体をあちこちつねって対抗したが、いつの間にか一緒にうねりに身を任せていた。
 真美は中村の重みが身体から去ったあと、やさしく毛布がかけられるのを感じた。そして夢うつつの中で、中村が語り掛けるのを聞いていた。
「おれな、この仕事が終わったらセンテックスを辞めようかと思ってる。そして新しい会社を作りたいんだ。技術者の技術者による技術者のための会社と言ったらキザかなあ。最初のセンテックスの理念もそうだった。だいたい野球だってプレーヤーはマネージャーより高給を取ってるだろ。だから技術者は経営者より高給をとって当然なんだよな。ところがそんなところは一つもありゃしない。なら、おれが作ってやるさ。おい、聞いてんのかよ」
「ふーん……理想家」
 そう呟いて、真美は眠りに落ちて行った。
 

NEXT BACK HOME