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千葉刑事は署長の承認を得て東京に出張した。もっとも署内では、先般発見された不審死体の身元調査ということになっていた。名目はどうであれ千葉は、井上はるみと名乗る女を追うつもりでいた。
仙台中央署に届けられていた川崎市高津区の住所には確かに井上という表札が掛けられていた。もっともインタフォンの呼び鈴を押しても誰も答えなかった。他人の名前を騙ったのかどうかは、はるみ本人を捕まえてみないことには分からない。千葉はとりあえず近所の聞き込みをすることに決め、ぶらぶらと溝の口方面に向かって歩き始めた。川崎と言えば煙突の立ち並ぶ工業都市を想像していたが、山の手のこのあたりは静かなものだった。
ただ、住宅街というのは厄介なもので、いざ人の話を聞こうとすると誰も通りに出ていないし、煙草屋は自動販売機が店番をしている。やむなく千葉は手近な一軒に立ち寄り、呼び鈴を押した。
「どなた」と太い声がする。
「興信所の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして」と千葉は古い手を使った。案の定相手は、「間に合ってます」と言って通話を打ち切った。
これが田舎だったら、庭から縁側に上がり込み、漬物とお茶をふるまわれながら世間話をしてぼちぼちと本題に話を持って行くという得意の手が使えるところだ。ところが都会ではけんもほろろ、取り付く島もない。無理押ししてドアを開けて貰っても気持ち良く供述してくれるはずもない。千葉はあきらめて隣に移った。
千葉がようやくこの街の住民の顔を拝めたのは、四軒目のベルを押した後のことだった。
「はいはい、どなた」と七十歳ほどと見える老女が玄関口から顔を覗かせた。
千葉がうんざりしながら作り話を繰り返すと、彼女はまあどうぞおあがりなさいと言って、千葉のために大きく硝子戸を開けた。千葉はしばらく信じられずに立ち尽くしていたが、再び彼女に声をかけられてその家の敷居をまたいだ。
通された応接間は一面に段通が敷き詰められ、古びた革張りのソファが置かれていた。
「どうぞお掛けになって」と老女は言った。「いま、お茶を淹れて来ますので」
千葉はあわてて断ったが、彼女は気にも止めず部屋を出て行った。千葉はやむなくそこに座り込んで部屋を見回した。壁には複雑な模様を織り込んだタピストリが掛かっており、一方の壁には飾り暖炉がしつらえてある。
「なんだか、すごいとこに来ちまったな」と千葉は呟いた。独居老人の暇潰しに選ばれたつうことか。もっとも年寄りなら土地のことはよく知っているだろう。
しばらくして老女が盆にティーポットとクッキーを載せて戻って来た。
「いや、これは造作かけます」と千葉は言って頭を下げた。
「いいんですのよ」と彼女はポットからカップに紅茶を注ぎながら言った。「お砂糖とミルクはご自分でお好きなだけお取りになって」
千葉は角砂糖を二個取ってカップに入れ、無造作に掻き回した。「あなた、東北の方でしょう」と老女は訊いた。
「はあ、言葉で分かりますか」
「死んだ連れ合いが福島の出身なの。似てるわよ」
言葉の話でも死人に似ていると言われてはいい気持ちはしない。千葉は直ちに用件に入った。
「実は、この先の井上さんの娘さんのことなんですが……」
「ああ、あそこのお嬢さんの……そう、もう適齢期ね、言われてみれば」
「はあ、それで縁談の相手と言うのが仙台でも有数の大地主で、いや、まだそんな段階じゃないんだけど、とにかく身元だけでも調べておけというわけです」
千葉は出任せを並べながら老女の表情を伺っていた。彼女は露ほども疑いを見せずに言った。
「ええ、ええ、井上さんのはるみちゃんならこんな小さいときから知ってますとも。あなた、そりゃかわいいし、しっかりした子でねえ、ちゃあんとあいさつもできるの」
二〇年前の話はどうでもよい、問題はここ数年の行動だ。
「ご両親はご健在ですか」と千葉は水を向ける。
「いいえ、それがねえ……」と言って老女は有らん限りの情報を吐き出し始めた。おそらく近隣のことで知らぬことはないのだろう。しかしその内容は千葉の意と反して、仙台中央署に現れた女の供述を裏付けるようなことばかりだった。
「なるほど、天涯孤独というわけか。大学はどうなさったんでしょう」
「お兄さんと同じところがいいと言って、筑波に行ったんですが、さて卒業されたか途中でおやめになったか、とにかくお父様が亡くなられてからはあの家に戻ってますね。新宿の会社に勤めてるそうですし。いまでも道で会えばちゃあんとあいさつしてくれるし、あれはいい子ですよ」
あいさつのことはもう分かった、と千葉は苦笑した。
「会社の名前は分かりますか」
「ええ、聞いたことがありますよ。さて、なんといいましたか……」と言って、老女はあたかもそこに看板が見えるかのように窓の外に目をやる。そのまま一、二分待って、千葉はあきらめて話題を変えた。
「ですが、女の一人暮らしは不用心ですな。まして、一戸建だし。心細さの余り誰か男が一緒に−−なんてことはないですか」
「あら、大丈夫よ」と老女は笑った。「はるみちゃん、空手の有段者なのよ」
「へえ、それはそれは」
「ねえ、とてもあのかわいらしい顔立ちからは想像もできないでしょう」
そう言われても千葉は顔立ちすら想像できない。彼は話題を変えた。
「それで、お兄さんはまだ見つかっておられないんですな」
「ええ、もし見つかってたらわたしの耳にも入って来るはずよ」
「なにしろ、大地主の財産分与の問題も絡んで来ますからな、ここははっきりさせとかないと」と千葉は熱を込めて言った。「まだ失踪宣言も受けていないんですか」
「わたしもそういう立ち入ったことまではねえ」と老女は言葉を濁した。
聞くべきことはだいたい聞いた、と千葉は判断した。それから二、三、当たり障りのないことを話して、千葉はその家を辞去した。
「もしこの話が纏まるようでしたら、また改めてお礼に伺いますので」と千葉は去り際に言った。
「あら、お礼なんかいいんですのよ、楽しかったわ」
そう言って彼女は丁寧に頭を下げた。それを見て千葉は母親ほどの年寄りを騙したことを多少後ろめたく思った。
千葉は再び駅の方面に歩を向けながらあれこれ考えていた。美人の娘が一人暮らしということになると、仙台中央署に現れた女は、井上はるみである可能性が高い。するとこれは、おれの見込み違いか。千葉は交差点で立ち止まり、煙草に火を点ける。しかし、デカのカンは何らかの犯罪が行われたと警報を出している。あの死体はやっぱり殺しだ、と千葉は横断歩道を渡りながら思った。そして、はるみは何かを隠している。よし、次は井上はるみの足取りを追おう。
そう決めると千葉は急に空腹を感じ、手近な食堂に飛び込んだ。そしてカウンターに座るとラーメンを注文し、スポーツ新聞を広げた。贔屓のオリオンズはシーズンが始まったばかりというのに早くも5連敗を喫している。まったくあのまま仙台にフランチャイズを置いときゃ良かったのにと千葉は不満そうに鼻を鳴らした。途端に壁際のテレビが、今日午前十一時頃仙台市の繁華街で三〇歳くらいの男が、と馴染みの地名を流し始めた。千葉は新聞を置いてその画面に目をやった。
平田健二は指令者が自分に命令する声を聞いていた。それで彼は自分の使命を思い出した。戦いは神聖である。平田はシャワーを浴びてから真新しい下着を身につけた。そして少し考えてから重要なことを思い出した。武器の授与をまだ受けていない。自分の位が低いせいだと彼は考えた。早く戦果をあげなくては。正戦士になれれば破邪の剣やビームガンを与えられる。それまではナイフが妥当なところだろう。
平田はジャンパーを引っかけてポケットに財布をねじ込み、外に出た。ズボンは一着しか持っていないスーツのボトムだったが、一向に気にならなかった。春風が妙に心地よく、太陽の光は真っ白に輝いている。平田は折よく通り掛かったタクシーに手を挙げた。
「一番町、青葉通り」
平田は乗り込むと明るい声で言った。そしてカーラジオがしゃべっているのに気付くと不機嫌そうに、「うるさい。指令が聞こえない」と言った。
運転手は不審そうに振り返ったが、平田の据わった目と視線が会うとあわてて前方に向き直った。そして、ラジオも無線も切ると何事もおきませんようにと神仏に祈りながらスピードを上げた。白バイに捕まるものなら捕まえて欲しかったが生憎そういうときに限って警官はよそに呼ばれているらしく、一向に現れない。運転手は飛ばしに飛ばして、とうとう一番町に着いてしまった。
「着きましたよ」と運転手は注意深く言った。右手は懐中電灯を握り締めている。
しかし相手は財布から一万円札を一枚抜き出して前に放り出すと、自分でドアを開けてさっさと出て行ってしまった。運転手があわてて舞い落ちる札を押さえて、お客さんお釣りと言ったときにはすでに彼の姿は雑踏に紛れていた。
平田は金物屋を探していた。
この街並には記憶があった。指令者と出会う前に何度か来たことがある。広瀬通りに向かって右側、そう、そこに大きな金物屋がある。ナイフはガラスケースに入っていた。
平田が財布を握りながらその幅広のナイフを出してくれというと、店員はこれは上物です、大事に使えば一生ものですなどとおべんちゃらを言いながら箱に入ったままケースのうえに置いた。平田はそれをつかんだ。握りがしっくりと指に沿う。そのとき平田は指令を聞き、それで目の前の店員の顔に切りつけた。店員は血しぶきを上げながら倒れた。平田は嫌悪に顔を顰めると財布を丸ごとケースの上に投げ出した。もはや金などはいらない。ほしい奴が受け取ればいい。
平田は店の外に出た。目の前に若い女がいた。ちゃらちゃらした格好、明らかに処女ではない。だから平田は切りつけた。女は奇妙な声をあげる。二人目、レベルが上がった、と彼は思った。あと何人屠れば戦士にふさわしい武器が授与されるのだろう。
平田は皮膚がむずむずするのを感じた。ナイフを口にくわえ、ジャンパーとシャツを脱ぎ捨てた。下着はナイフで引き裂いた。そして平田は自由になった。
井上はるみは仙台の市街図を買うために、書店の店先にいた。
近くで悲鳴があがるのを耳にして、はるみは店を出てみた。
「人殺しだ、ナイフを持ってるぞ」と誰かが叫んだ。逃げて来る者と、駆け付けようとする野次馬とがぶつかりあっている。その渦中に返り血を浴びた全裸の男がいた。男は逃げ惑う人々の背中にナイフを次々につき立てていた。人垣が割れて、途端にはるみは男と正面から向かい合った。
はるみは間合いを取った。熟練したナイフ使いに対しては、はるみ程度の空手の腕では怪我の元となる。はるみは挑発するように蹴りの真似をしてみる。男は驚いたようにめちゃめちゃにナイフを振り回した。筋肉のついていない薄い胸が痛々しいほどだった。
素人が幻覚を見ている、とはるみは思った。シンナーかシャブか、いずれにしても正気でないだけに始末が悪い。警官が来るのを待った方がいいか。
はるみの躊躇をつくように、男は身体ごとぶつかって来た。はるみはかろうじて左に跳んだ。同時に向こう脛に足払いを掛ける。男はもんどり打ってブロック舗装の道路に転がった。しかしまだナイフを離さない。はるみは駆け寄ってその掌を踏み付けようとしたが男は素早く立ち上がって切りかかって来る。はるみは身体を開きざま左手で鳩尾に一発正拳を入れた。何も鍛えたことのない男の腹は柔らかく、男は胃を抑えてその場にしゃがみこんだかと思うと声をあげて吐き始めた。はるみは血にまみれたナイフを拾いあげた。そのとき人垣を掻き分けて、制服警官が四名現れた。
「それを渡せ、おとなしくしろ」と一人がはるみに言った。
はるみがナイフを差し出すと警官は引ったくるようにしてそれを受け取った。別の警官が歩み出て、はるみの腕を掴み、手錠を掛けようとする。それを見て野次馬たちが口々に騒ぎ出した。
「おい、その娘さんは違う。人殺しはあっちで転がってる奴だ」
警官たちはそこで初めてうずくまっている裸の男に気付いた。警官たちは顔を見合わせ、男に近寄って回りを取り囲んだ。他に武器を所持している様子はないと見て取り、一人が肩に手を掛けた。
平田健二は敗北を認識していた。敗北は死で贖え。指令者の声が聞こえる。たかが魔女ごときにやられた自分が情けない。これでは戦士などお笑い草だ。死の制裁は当然だろう。だがナイフさえ既に奪われている。なんという屈辱。指令者は決してお許しになるまい。だが覚悟を見せればあるいは。
平田はよろよろと立ち上がり、群衆に向かって舌を突き出す。そしてその舌を思い切り噛み切った。群衆がどよめき、平田を讃える。平田の願いは聞き届けられ、魂は正戦士に列せられるだろう。
警官たちは何が起こったのかすぐに気付いた。苦痛に顔を歪めて倒れた男に駆け寄り、口を開かせようとする。だが男は歯を食いしばっている。血を吸い込んでいるのか、喉がごろごろと鳴っている。一人がボールペンをポケットから出し、歯の間に差し込もうとしたが、プラスチックの軸はすぐに折れてしまった。一人は救急車を呼びに走った。
はるみは呆然と成り行きを見ていた。近所の商店主らしい男が、はるみが乱闘の中で落としたバッグを差し出した。はるみは黙って頭を下げる。
「あいつ、ヤーさんかな」と彼は言った。「あんた、強いね」
はるみは適当に相槌を打った。それよりこの場からどうやって消えようかとそればかり考えていた。もっとも逃げたら立場は一層まずくなる。逡巡しているうちに間延びした救急車のサイレンが近づいて来た。