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七夕から旧盆が過ぎると、東北はいつもの落ち着きを取り戻す。秋は紅葉、冬のスキーと呼び物が続くとはいえ、やはり稼ぎ時は夏だった。
だから細倉の鉱山資料館に現れたその若い男のことは、館員もよく覚えていた。
「ウイークデーに一人で来るのは大体歴史か資源の学生さんなんだけど、あの人は東京のサラリーマンって感じで、なんつうか少し場違いだったね」
千葉刑事は冷房の効いた館内でもなお滲み出す汗を拭いながら言った。
「最初から最後まで一人だったかね」
「ここではそうだったと思うけどね」
「車で来たのかな」
「見てたわけじゃないけど、バスだったら何人か固まって入館するし、たぶん車でしょう」
「その車は、これかな」
千葉は一枚の写真を出した。館員はひらひらと手を振った。
「だめだめ、見てないつったでしょ」
「車に誰か残ってたとか、そのくらいはどう」
「わかんないっすね、はっきり言って。顔や服装はさっきの写真の人と思うけど、それ以上はだめです」
「これか」と言って千葉は別の一枚を取り出した。館員はあわてて目を閉じた。
「もう見たくないっすよ、刑事さん。しまって下さい」
その写真には、車の運転席で腐敗しかかっている原田の死体が写されていた。
千葉は外に出てまた汗を拭いた。アスファルトで固められた駐車場に日陰はなく、車は見事に焼き上げられている。温暖化現象か何か知らんが確実に毎年暑くなって行く。もうすぐ九月だというのに、東北のこんな山里でさえこれだ。もっとも今年はマサルの奴がつぎつぎ死体を発見してくれるお陰で、山里の刑事も忙しい。
栗駒署に佐藤優の親父から電話が入ったのは三日前のことだった。八月二十日、夏休み最後の日を記念して、優は一人でまた廃坑方面にサイクリングに出掛けた。そして県道から少し入った所に白い車が停まっているのに気付き、何となく運転席を覗いた。
「よく腰を抜かさなかったもんだ」と優の親父は言った。「将来、医者か刑事になるんじゃねえか」
確かにあの膨れて悪臭を漂わせている死体を見ながら、落ち着いて親父に教えたというのは子供にしては上出来だ。それにしてもおれなら何かに祟られてるんじゃねえかと思うところだ。親馬鹿というのは度し難い。
千葉は車に乗り込んですぐにクーラーを掛ける。からだにべっとりと張り付いた下着が気持ち悪い。
死体の身元はすぐに分かった。免許証も名刺もポケットに入っていた。死因もすぐに分かった。左胸の見事な刺創。血を噴き出す力もないまま息絶えたのだろう、出血はシャツを染める程度に止まっている。おそらく犯人もそれほど返り血を浴びてはいない。凶器はナイフか出刃包丁のような鋭利な刃物と推定されたが、付近を捜索しても見当たらず、犯人が持ち帰ったものと思われた。
それにしても、と千葉は車を出しながら考える。またも出て来たハイテク・リサーチつうわけだ。ありゃ何だ、疫病神の集団か。
原田俊一郎、三十二歳。株式会社ハイテク・リサーチ調査部勤務。死体を確認したのは故人の親父だが、一緒に現れた調査部長というのが垢抜けたいい女だったのにはたまげた。井上もまあ美人ではあったが、やはり年増の落ち着きが好ましい。
えい、俺は何を考えてんだと千葉は首を振る。四月に廃坑で発見された死体も結局身元不明のままだし、この件もお宮に入るようなら出張ってきている県警の連中に何と言われることやら。
原田の乗っていた車は、仙台駅のレンタカーで、白のスカイラインだった。せめて外車だったらもう少し注意を集めただろうが、被害者の足取りを追うだけでも一苦労だ。特に車が貸し出された八月十六日はUターンラッシュのピークで、応対した係員も、借りたのが原田本人だったのかあるいは別人だったのか、同乗者はいたのかなど捜査官が質問しても首を傾げるばかりだった。
千葉は、細倉を訪ねたよそ者が立ち寄りそうな施設を回ってみることにした。そう言っても、それほど呼び物が多い訳ではないから、鉱山資料館の館員が覚えていてくれたのは唯一の収穫と言って良い。これで3点だけだが被害者の動きの線が引ける。
十六日午前十時、車を借りる。同日午後一時半頃、細倉の資料館に現れる。そして同日午後三時頃には現場で既に絶命している。まっすぐ細倉まで殺されに来たようなもので、ほとんど道草を食う余裕はない。
待てよ、と千葉は考えた。道草は食わなくとも昼飯くらいは食ったはずだ。胃の内容物は何だったか、と千葉は車を路肩に寄せて停め、書類入れを探った。解剖所見を引っ張り出して見ると、麺類が残っていると記されていた。それなら車の中でカップヌードルでも啜ったのでない限り、どこかのドライブインなり食堂に入ったことになる。仙台からここまで道沿いに何軒の飯屋があるかを考えて千葉はうんざりしたが、まあ高速を使ったとすればかなり絞られるなと思い直した。とにかく一軒ずつしらみつぶしに当たって、この写真を見せることだ。それにしても早く生前の写真を送って貰わないと、食堂ではいい顔をされないだろう、と千葉は車を再び発進させながら苦笑した。そして、同乗者がいたとしたら、昼飯くらいは一緒に食うに違いない。
千葉が同乗者にこだわるのには理由があった。車に残されていた手帳のスケジュールには、十六日の欄に『9.30、stn.Nと』と記されていた。これは、九時三〇分に駅でNなる人物と待ち合わせたものと解釈できる。そして、車を借りる直前に人に会ったということは、そいつと一緒にドライブをするためだったと考えるのが自然だろう。さらに、放置されていた車を調べた結果、助手席周辺はきれいに指紋を拭き取られていたことが分かった。また、争った形跡もなく、車の周囲にほかの車の轍もない。状況から見て、被害者と一緒に現場まで同乗して来た犯人が、原田を殺害したあと徒歩で立ち去ったと考えられた。犯人の逃走経路については別の班が追っている。千葉の班は犯行当日の状況を再現することにかかりきりとなっていた。
氏家真美は化粧鏡に映る自分の顔を眺めて、目尻の皺の増殖を確認していた。
全く皺も増えるわよ、と真美は自分に向かって呟いた。
原田の死体が発見されたとの知らせは、まずハイテク・リサーチに入った。
−−その者は確かに私共の社員です、と真美は栗駒署の問い合わせに答えた。はい、仙台方面に出張させておりまして、実はここ二、三日連絡がないので心配しておりました。
管轄署の千葉と言う刑事は、他殺の疑いがあると自分からは言わなかった。真美が状況を問いただしたのに対し、しぶしぶ答えた。
−−致命傷は胸の刺し傷です、凶器は見つかっていません。
もちろんそんな複雑な自殺はないに決まっているから、真美は原田の父親に対し、はっきりと伝えた。
−−残念なお知らせですが、ご子息の俊一郎さんが出張先で亡くなられた模様です。はい、事故ではなく何者かに殺されたものと思われます。確認には私も参ります。ええ、仙台駅で待ち合わせましょう。
もっとも、死体とのご対面は、父親が伜に間違いないというので勘弁して貰った。捜査官の話では、見たら二日は食事が喉を通るまいとのことだった。それから遺品を整理して、証拠価値がないと警察が判断した物のうち、会社に帰属する物は真美が引き取った。調査ノートは返されたものの、手帳についてはスケジュールが記されているからということで警察が預かった。真美にとってはノートが返っただけでも有り難かったが、その内容は貧困の一語に尽きた。原田がそれほどずぼらな性格だったとは思えないだけに、それは真美に疑いを起こさせるのに十分だった。
あいつ、わたしに隠れて何を追っていたんだろう。真美は唇に紅を引きながら考える。センテックスに関する報告では、労働条件の厳しいことや、フロンの使用など環境対策の立ち遅れについて指摘していた。もっともそんなことはハイテク産業では定番と言ってよい。その手の報告でお茶を濁して、繰り返し仙台に出張する原田を黙認していたのは、彼が例の獲物を嗅ぎ付けた目付きをしていたからだ。そのうちまとめて鼻高々に報告するつもりだったのだろうが、死体になってはそれも叶わない。
ただ、真美が恐れているのは、原田の死にセンテックスが関わっている可能性があることだった。捜査官は、真美と父親に尋ねた。
−−当日、原田さんは、Nという人物と会ったらしいんだが、心当たりはないですか。
仙台のNといえば、真美は中村しか思い付かない。もちろんそれを口に出しては言わなかった。
まあ、中村部長殿は仕事の鬼だから、人を殺すような暇はないでしょうけどね、と真美は考える。
中村は社員の錯乱殺人で急遽帰仙して以来、東京には一度来ただけで、それも真美の部屋には立ち寄ってさえいない。ときおり電話はあるものの、内容はSIV一本である。発売まであと何カ月、準備着々、頑張りまっすと言った調子だった。いきおいSIVの情宣活動に関する交渉相手はセンテックス東京本社の者が担当することになったが、これがまた面白味のない男で顔を突き合わせているだけでげっぷが出る。中村の紹介でなければ出入り禁止にしているところだ。
真美は身支度を整え、部屋を出る。鍵のかかる音が早朝のコンクリート廊下に響いた。昨日も原田の葬儀のために休んでしまった。井上はるみがフォローしてくれているから大丈夫とは思うが、ブーミングの仕掛けも最終段階に入っている。九月一日を期して全国紙の全面広告を押さえているし、それ以降に発売される雑誌にも発売予告広告を打つとともに、一般科学雑誌では理論の特集、ビデオ・ゲーム雑誌ではソフトの可能性に関する特集が組まれることになっている。テレビ方面がやや弱いのは難点ではあるが、とにかく向こう二か月間これを続ければ、この国の国民はSIVに対する好奇心で沸き立つばかりになっているだろう。そして、十一月一日の発売日を迎えるのだ。
−−ほんとに十一月一日に間に合わせてよ、と真美は中村に念を押した。さもないと、センテックスもハイテク・リサーチも焼き打ちに会うわよ。
−−はっはっ、大丈夫だよ、たぶん、と中村は笑った。
全くあの脳天気、あのときはあれほど蒼ざめていたくせに、仙台に戻ったとたん元気回復している。もっとも回復してくれないことには真美の立場もまずくなる。ハード関係の特許はセンテックスの特許に対抗するに至らなかったが、ソフト面では真美の売った手が功を奏し、映画関係、ゲーム関係ともハイテク・リサーチが代理店となって製作販売を請け負うことになった。さらに駅売りのビデオ新聞についても、来年早々にはまず夕刊の形でスタートしたいと思っている。そのためにはハイテク・リサーチもかなりの投資を強いられていた。
真美は電車に乗って新聞を広げた。女がこういうことをすると、男たちは珍しい物体でも見たような目付きをする。まあ、今に見てなさい、こういう風景は過去の遺物になるから。真美は、SIVのフェイスセットを掛けたサラリーマンが吊り革にずらりと並ぶ情景を想像して、思わず微笑した。そうなれば男も女も情報に対して平等になるだろう。
真美は社会面を開いた。すでに原田の件は新聞種から消えている。一時は新聞記者やテレビのレポーターまで現れて、どうなることかと思ったが、全く心当たりがありませんで押し通した。原田やその家族には気の毒だと思うが、真美にとっては、あとは警察の仕事、わたしの仕事はほかにあると言いたいところだった。いやそれとも、言っちゃあなんだがあたしゃ今更殺しぐらいじゃ驚かないよ、とケツをまくってたんかを切れば受けたかもしれない。あたしの亭主だって殺されたんだ、腹の大きい女房を残してね。
真美は新聞を畳んでバッグに突っ込んだ。まあ、あんまり昔の思い出に耽ると身体によくない。そんなことより、ブーミングスタートまであと一週間足らず、遺漏が無いかチェックしなければならないことは多い。
真美がハイテク・リサーチに着くと、すでに出社していた井上はるみが明るい声で挨拶をした。他人の不幸を簡単に割り切れるのも若さの特権なのだろう。
「お早う」と真美が挨拶を返す。「昨日はどうも。どう、順調かな」
「ええ、SIVの方は予定通り進んでいます。ソフト関係は、ゲームアダプタの完成品もセンテックスからハニービーソフトに入ったそうで、すでに移植作業にかかっているはずです。映画のラインナップも大体決まって、順次LDから立体視処理をしながらSIVのシートに焼き込みを進めることになっています」
「センテックスはマイクロチップを予定数確保できたのかしら」
「一部は韓国製のコンパチを使うのは避けられないと言うことでしたが、信頼性に問題はないとのことです。すでに製造ラインも馴らし運転で動き始めているそうですよ」
「一日千台は造って貰わないと恐らく予約もさばき切れないことになるわよ」
真美はそう言いながら机の引き出しのロックを解除し、SIVの最新試作品を取り出した。軽量小型化は試作ごとに大幅に進められ、すでに厚手のサングラスと言っても通る程までシンプルに改良されている。第一期の商品では軽量化が極限まで追及され、チタンフレームが採用される予定になっていた。
「もういいかしら」と真美は言った。「ちょっと見させてね。そう、十分くらいでいいから」
「それ、そんなに面白いですか」と、はるみは首を傾げて訊いた。「朝の一服と言う感じですね」
「あ、それいいね、キャッチフレーズにいただこうかしら。……はるみは、これ嫌いなの」
「嫌いということはないですけど、自分が機械に捉えられているような気になります」
「そこがいいのかな」と真美は眼鏡の位置を調整しながら言った。「わたしが見ているのはイメージビデオだけど……砂浜で……わたし、海の町で育ったから……」
はるみは一礼して真美の前を離れた。はるみは真美と異なり、SIVの強すぎる刺激に危惧を抱いていた。自分の兄の失踪がそれに関わっていると思われるだけに尚更だった。それでもこの仕事に携わっていれば、いつか兄の足跡を見付けることができそうな気がしている。四月に廃坑で発見された死体は、手掛かりのないまま火葬に付された。その遺骨を引き取る決断はまだついていなかった。