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 その日の夕刻、井上はるみは帰宅途中で近所の松沢のお婆さんに出会った。
「ただいま」と、はるみは笑顔で挨拶する。
 老女は、お帰りなさいと言って擦れ違おうとしたが、つと足を止めた。
「はるみちゃん」
 老女の声に、はるみは振り返った。
「ねえ、あなたのお勤めの会社、ハイテク・リサーチって言わなかったかしら」
「ええ、そうですが」
「やっぱりね」と老女は頷いた。「ほら、この間、宮城県で殺された人がいたでしょ、あのニュースでハイテク・リサーチって言ってたの、どこかで聞いたことがあると思ったのよねえ。そう、はるみちゃんのとこだった。−−あの人、お知り合いなの?」
 話が長くなりそうなので、やむなくはるみは向き直った。
「ええ、そりゃ小さい会社ですので」
「あら、ご謙遜。会社も映ってたわよ、まあまあのビルね」
 はるみは苦笑した。ただの話相手ならそろそろ放免して欲しい気分だった。
「そうよね、前に一回聞いてたもの」と老女はなおも言葉を続けた。「でも、あの刑事さんに訊かれたときはどうしても思い出せなかったものねえ」
 はるみは思わず大きな声を出した。
「おばちゃん、刑事さんて、誰」
「あら、言っちゃった」と老女は口に手をあてた。「いえね、私立探偵で、はるみちゃんの縁談調査なんて言ってたけど、あんまり見え見えのお芝居だったものでわたしにはすぐ分かりましたよ」
 はるみにはどうにも事情が分かり兼ねた。
「それ、いつのことかしら。原田さんのことなの」
「原田さんって、今度なくなった方でしょ。いいえ、四月の話だもの」
 四月と言われれば心当たりはひとつしかなかった。
「ねえ、その刑事さん、東北の方かしら」
「ええ、そう言えば少し訛りと言うか、イントネーションがね、福島かあのあたりという感じでした」
 はるみは思わぬ横文字に面食らったが、女子師範卒という老女の経歴を思い出して納得した。それにしてもその刑事はわざわざ何を探りに来たのだろう。はるみは、昨年大阪で知り合った元刑事の話を思い出す。
 −−刑事言うたら人を疑うのが商売やからな。
「ありがとう、失礼します」
 はるみは松沢のお婆さんに頭を下げて家路を急いだ。
 警察はわたしを疑っている。なんて事なの。口惜しさと腹立たしさに涙がこぼれそうだった。この仕事が一段落したら、ひとりででも兄の足跡を追ってみよう。ぶつかる先がセンテックスだったとしても構わない。はるみは、もはや小走りになっていた。誰にも自分の顔を見られたくなかった。
 
 栗駒署の会議室が捜査会議に使われるのは久しぶりだった。細倉鉱山がかつて活気に溢れていたころでさえ、酒のうえでの喧嘩騒ぎはあっても殺しにまで発展することは滅多になく、まして計画的殺人とみられるよそ者の死体が発見されるなどということは、前代未聞だった。
「わたしらの班は、被害者の足取りを追ってました」議長席の署長に指名され、千葉刑事は立ち上がって発言を始めた。「現在のところ、4地点で被害者の姿が確認されております。まず、十六日午前十時、仙台駅レンタカーで白のスカイラインを借りています。免許証を控えられていますから、まず被害者本人に間違いはないです。それから、正午過ぎ、金成のインターを降りて県道細倉線に入った所にある『銀山』というドライブインでよく似た男が割籠そばを注文しています。そして……」千葉は言葉を切って、署長に目を向ける。「ここでは二人連れだったとのことです」
 出席者の間にどよめきが起きる。初めて手掛かりらしいものに行き当たった興奮が、捜査官たちに慎みを忘れさせた。
「班長、それは男か」
「特徴とか分かるか、証人は信頼が置けそうか」
 てんでに一同が質問を始めるのを署長が制した。
「まあまあ、部長刑事に続けて貰おう」
 千葉は促されて手帳を開いた。「被害者の連れと思われる人物は四〇代と思われる男性で、眼鏡はなし。服装は半袖シャツながらきちんとネクタイをしていた。ちなみに被害者の服装をポロシャツにジャケットと間違いなく言っていることから、この証人の観察力、記憶力は信頼できると思います」
「よく覚えていたもんだなあ、昼飯時だろう。ドライブインが一番混むときじゃないの」
「証言してくれたのはそこのウェイトレスなんだけど、若いほうの男がその子をつかまえて、細倉まであとどのくらいとか、道は混んでないかとか東京弁で訊いたそうだ。さらにそれに対して連れの男が、おれはここの出身なんだから任せとけと言ったのを聞いて、思わず顔を見たそうです」
「それで−−その娘と顔見知りだったのか」県警から来ている捜査一課の庄子警部補が意気込んで尋ねた。
「いや、なんぼ田舎でもそれほど世間は狭くないっすよ。全く赤の他人だったそうです」
「そうか、そうだろうな」と警部補は納得した。「つまり、そいつがNだというわけだな」
「その可能性は大だと思います。−−それで、被害者の行動のほうを続けますと、そのあと彼は細倉の鉱山資料館で館員に目撃されています。ただ、ここでは一人だったそうですし、あまり目立つ行動も取らなかったので、目撃者の印象もそれほど強くはないです」
「それは何時ころと言ったかな」すでに口頭で報告を受けている署長がフォローした。
「一時半から二時頃とのことですが、証人の信頼性から考えるともう少し幅があるかも知れません。ただ同日夕刻、消化の進み具合から見れば早くて三時頃には殺害されたとの解剖見解ですので、二時すぎに資料館を出て、まっすぐ現場付近に行ったとみていいのではないでしょうか」
「そして、現場で、Nは隠し持っていたナイフを取り出して被害者を刺し、放置して逃げたという筋書きになるのかな」
「だと思います」
 千葉刑事は自分の担当範囲の報告を済ませると着席し、ハンドタオルを取り出して顔を拭いた。会議室にしばらく沈黙が流れた。それぞれの捜査官が、原田とNの行動を追体験しているのだろう。
 やがて署長が軽く咳ばらいをしてから言った。
「次は、現場付近の捜索と、車の中だが」
 署長に目で促されて鑑識係長が立ち上がった。
「現場周囲の山林、及び放置された車内には、凶器着衣その他これと言った遺留品は現在までのところ発見されておりません」
 係長は言葉を切った。一同はまだ続きがあるものと思って、その口元を見つめている。しばらくしてたまりかねたように署長が言った。
「それで終わりですか。−−ええと、指紋のほうは?」
「はっ。指紋については、既に初日に判明したように、助手席周辺は作為的に拭き取られております。助手席側のドアの取っ手も拭かれていることから、犯人は助手席を開けて逃亡したと推定されます。……ええと、その他の部位の指紋は、なにしろレンタカーですので多岐にわたり、現在分類中です」
「ハンドルはいかがでした」と千葉は口を出した。係長が細い目を千葉に向ける。
「ハンドルおよびレバーから検出された指紋はほとんどが被害者の物でした。ただ、クラクションには明らかに違う物がついてましたが、繰り返すように、なにしろレンタカーですので誰の物とも断定できかねると思います」
 千葉は鑑識の言葉に引っ掛かるものを感じた。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ」と千葉は確かめるように言った。「クラクションに違う指紋が検出されたとおっしゃいましたね」
「ああ、しかしそれが誰の物かは特定できないと言いたいんだ」
「しかし、仙台の繁華街を抜けて高速に入り、インターから国道に入って細倉まで、この間一度もクラクションを鳴らさないというのも不自然じゃないですか」
「そうでもねえだろ、クラクションは癖みたいなもんで、鳴らす奴は引っ切りなしに鳴らすけど、おれなんか普通一日に一度も鳴らさねえな」
「それはそう言う方もおられるでしょうが……わたし今思い付いたんですけどね、ここに二人連れが車に乗っていて、一人は東京から来たばかり、一人は地元出身だとしたらどっちが運転するのが自然でしょうかね」
「千葉さんの言いたいことは分かった」と警部補が口を出した。「つまり、少なくとも細倉までは、容疑者Nがハンドルを握っていたと言う訳だな。となると、クラクションの指紋は当然Nの物である確率が高い」
「それならなんで被害者は運転席にいたんだ。それにハンドルの指紋も被害者の物が卓越しているじゃねえか」
「わたしの推測ですが、Nという男はなかなか悪知恵に長けた奴で、鉱山資料館まで案内してきたところで、疲れたからなんて言って言葉巧みに運転を被害者と交代したのだと思います。それは勿論ハンドルやシフトレバーの指紋を被害者の物で埋めてしまうつもりだった。しかし、クラクションは見落とした。盆休みも終わりでマインパークもがら空きだし、資料館から現場までは渋滞もなかったので被害者は鳴らさずじまいで運転して現場に着いたんでしょう。そして、Nは被害者を殺害して助手席その他自分が触った所を拭き取る。運転席側のドアハンドルやライターなどは、たぶん資料館には入らないで車に残っていたときに拭き取っておいた。だから一緒に入館しなかったのです」
「そんな手の込んだことをするより、殺害後にハンドルも含めて全面を掃除した方が早いだろう」
「いや、それでは明らかに同乗者が殺害したことになってしまいます。犯人の意図は、できれば物取りか行きずりの通り魔殺人に見せかけたかったに違いない。おそらくそのためにも、以前不審死体の発見された廃坑に続く道端を現場に選んだのだと思います。ここでまた犯人は手抜かりを犯しているのですが、他の車でも通り掛かったせいか、あわてて逃亡したのだと思われます。−−つまり落ち着いていれば、物取りにやられたと見せかけるために被害者の札入れを盗むとか、我々が同乗者がいたと断定した手掛かり、つまり手帳のスケジュールを持ち去るとか、もっと工作を完全にすることもできた筈です」
 千葉の意見は説得性があった。というより、手掛かりが少なく、他の者は自分の意見を持つに至っていない状態だった。署長は全員が先入観を持ってしまうのを避けるように、千葉の意見には触れずに議題を変えた。
「つぎは、犯人の逃走経路について、捜査状況を報告して貰おうかな」
 それを受けて、捜査係長が立ち上がった。
「ええ、他の車のタイヤ痕などが現場付近に見当たらないことから、犯人は現場から徒歩で逃走したものと仮定しておりましたが、県道に出てもバス停まではかなりあるし、タクシーなんぞは滅多に通らねえし、車を使った可能性も捨て切れません。徒歩、あるいはバスを使った場合は、最終的には栗原電鉄に乗ったと考えられますが、細倉から栗駒までの各駅とも挙動不審の人物は目撃されておりません。−−ま、千葉刑事のいうNという男の人相がもう少しはっきりすれば聞き込みの仕様もあるんだけどね」
 千葉は署長に許可を得るように目礼して立ち上がり、コピーした紙を取り出した。
「ここに、二人の目撃者の話を総合して、Nと思われる男の特徴をまとめましたのでちょっと配ってください」
 紙の束が出席者を一周し、余りが千葉に帰って来た。
「これはもっとプリントして各駐在所には配布するつもりですが」と言って千葉は署長を見た。「マスコミにも流して公開捜査までやった方がいいでしょうか」
「それはちょっと現段階では時機尚早だな」と署長は不機嫌そうに言った。「まだわれわれは手詰まりに陥ったわけじゃない。千葉刑事の人相書に該当する人物を洗い出して、それでも目撃者が現れなかったら公開するという段取りにしよう」
 しかし時間が経てば人の記憶は薄れると言いかけて、千葉は口を噤んだ。署長には一本負い目がある。署長は東京に出張して手ぶらで帰って来た千葉を、ねぎらいこそすれ、咎めはしなかった。それだけに千葉の気質としては、署長に頭が上がらない。
 千葉は黙って着席した。署長が頷いて説明を加えた。
「千葉刑事の調べで分かったように、犯人と目される男は地元の出身で土地カンもあると思う。わざわざあの現場を選んだというのも何か理由がありそうだ。したがって、挙動不審の者を捜しても当たらないんじゃないか。むしろ平然として堂々と逃亡したような気がするな。庄子警部補、どう思う」
 県警から来ている庄子警部補は、同感と言うように頷いた。
「わたしも、これは綿密な時間割にのっとった計画的殺人という意見に賛成です。ただ、地元出身と言ってるからには、今は仙台なり東京なり大都会に住んでるわけだから、無事逃げ帰ってるとしたら洗い出すのは並大抵のことじゃ難しいでしょう」
「ちょっと、いいですか」と千葉が遮るように発言した。「わたしにハイテク・リサーチをやらして貰えませんか」
 全員が千葉を注視した。あえて火中の栗を拾う馬鹿がいるといった冷たい視線から、おいしいところを取るつもりかといった不機嫌そうなまなざしまで感じられた。千葉は臆せずに言葉を続けた。
「実は私、この四月にも一度ハイテク・リサーチの名前に出くわしたことがありまして、因縁というわけじゃないんですけど、どうしても自分の手でやってみたいと思います」
「まあ、構わないんじゃないの」と直属の上司である刑事課長が言った。「被害者の足取りはだいたい分かったし、N氏を直接追うばかりが能じゃない。被害者が誰にどんな恨みを買ってたか、それも含めて千葉君とこにやって貰おうか。−−それでいいですか、署長」
「そうだな」と署長は値踏みするように千葉を見た。「課長に異存が無いなら」
 千葉は誰にともなく頭を下げた。千葉にはこの道が最短距離だという確信めいたものがあった。
 

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