闇を走る機械      1  氏家真美は夢を見ていた。  さまざまな顔の持ち主たちが疲れた堅い表情で救いを求めるように両手を伸ばし、真美の身体に触ろうとしている。その中には父や母やあの人の懐かしい姿もあるが、ほとんどは見も知らない顔だった。  なぜ、と真美は叫ぶ。わたしはあなたがたに何もして上げるつもりはないのに。  そして真美はこの修羅場を逃れるために空中に浮揚しようとして両手を上げる。真美の意志は夢の中でも理性を支配し、彼女は人々を下界に残して天空に浮かび、解放感と共に大空を翔ける。流れる大気を掴もうと、さらに思い切り広げた左手は、柔らかく暖かい物に突き当たった。 「ん。痛えな……」その物体がもごもごと口をきく。 「あら」と真美はたちまち現実に戻って声のほうにからだを向けた。「ごめん、起こしたかしら」 「うーん、もうこれ以上は勘弁しとくれよぉ」 「馬鹿ね、何言ってんのよ」真美は自分でも恥ずかしくなるほど蓮っ葉な調子で言った。「ほら、もう明るくなってる。あと五分で目覚ましがなるわよ」 「んなら、五分寝かせてくれ……」  男はそう呟いてたちまち寝息をたてる。  真美はその薄くなりかけた後頭部を眺めながら、世間の妻たちは毎朝のようにこういう男の身勝手に耐えているんだろうと想像する。真美はかつて短い結婚生活を送ったことがあった。その相手は真美以上にエネルギッシュな人間で、少なくとも真美より遅く床を離れることはなかった。彼は精力的に人生を走り抜け、そのあげくにさっさと一人であの世に旅立ってしまった。真美はいまでも彼との生活は夢の一部ではなかったかとぼんやり考えることがある。確かな証拠物件が残されているにもかかわらず。  とるる、とるる、と目覚ましが電子音を立てた。真美はボタンを押してベルを止めると、明るい口調で言った。 「センテックスの中村部長様、センテックスの中村部長様、社長様よりお電話でございます」  男はがばっと跳ね起きた。 「悪い冗談はよせよ。寿命が三年は縮まったぜ」中村康夫はチーズトーストをかじりながら言った。 「へえ、そんならあと十回もやればぽっくり行く勘定ね」と真美は鏡に向かいながら言った。 「いや、十三・五回は必要だな。それでこの〇・五回のやり方が難しい。下手にやるとゾンビになる恐れがあると言う」 「誰もそんなこと言ってやしないわよ。それより早く食べて。わたしもう出るわよ」 「どうぞお先に。鍵をお預かりしましょう」 「悪い冗談はよせよ」と真美は鏡に映る中村に唇を突き出して見せる。「わたし、誰にもこの部屋の鍵はわたさないの」 「それはお堅いことで。だけどおれたち付き合ってそろそろ一年になるぜ」 「付き合いの長さや深さの問題じゃないわ」  死んだ亭主への操だてってわけかしら、と真美は声に出さずに続け、一人で苦笑する。中村は不審そうにその様子を見ていたが、やがて立ち上がりながら言った。 「近いうち、君の力を借りることになるかも知れない。今回の出張はその下準備だ。ところで一週間ほど滞在することになるけど、鍵がないと不便だな」 「そんならカプセルホテルにでもお泊まりなさい。出張費を浮かせる手助けはしません。−−でも力は貸すわよ、有料で。どういう話なの」 「全くてぇしたアマだぜ」中村は着替えながら言う。「実はセンテックスの新製品発売を支援して貰いたい」 「どんな製品よ。そんな噂、聞いてないな。今までよく隠し仰せたものね」 「ほっ、業界の通信衛星と言われる氏家女史の目をごまかせたとは光栄の至り。ま、その話は今夜にでもゆっくりと」 「なかなか交渉上手ね。門限は十二時、泥酔者は追い出すわ。九時には帰宅していると思うけど、食事は済ませて来てね」 「おれ、やっぱりカプセルホテルにしようかな」中村は情けなさそうに言った。  氏家真美は代々木上原駅まで起伏の多い道を約十五分歩き、小田急に乗車する。新宿に本社を構えるハイテク・リサーチまでは待ち時間を含めても四十分もかからない。絶好のロケーションに2DKながらマンションを所有しているのは父の先見の明による。オイルショックで金利が下がったときに、まだ学生だった真美に持参金になるからと言って買い与えたのだった。もっとも真美は大学を卒業するとすぐに恋に落ちて、その相手と共に地方へ行ってしまい、東京本社に戻った父が逆単身赴任で使っていた。その父も今では田舎に引っ込んで孫の相手をしている。ふたりの妹たちは東京の大学に行くほどの度胸もなく、いったん実家に帰っていた真美が上京し、マンションを独占しても誰も文句を言わなかった。それからすでに十三年たっている。  真美が勤務しているハイテク・リサーチは、人材派遣、調査出版、就職情報、そのほかハイテク関係の展示会演出、広告等、何にでも手を出す会社で、忙しい割りには儲からない。ただ、ライバルの大手業者が政治的スキャンダルで評判を落としたときに強引な営業で売り上げを伸ばした名残で、小さいながら自前のビルを持っている。真美は入り口の守衛に軽く挨拶し、エレベーターを待たずに三階に昇った。ドアを開けると誰も出社していない部屋の無機的な匂いが真美を包んだ。  真美は机の間を通り抜け、一番奥の自席に向かう。真美の机のうえには『取締役調査部長』と刻まれた小さなプラスチックのプレートが立てられている。初めてこの席に座ったときには気恥ずかしさが先にたって、迎えてくれた部下たちの拍手にも顔を赤らめてしまったものだったが、二年目ともなるとさすがに落ち着いて来た。それどころか、一部の大株主からは早くも次の次あたりに社長にしたらという声さえ出ている。  真美は椅子に座ると端末のスイッチをいれ、企業データベースを呼び出した。続いて『センテックス』をインプットすると、CRTに会社の組織、内容、経歴、成績、将来等がずらずらと表示された。  株式会社センテックスは東京に本社を置くものの、発祥の地はその名称に名残を止めているように仙台市である。通信工学の大御所、西沢教授の肝入りで、東北大学工学部各科のオーバードクターたちが寄り集まって旗揚げをしたと言われている。社名は当初手掛けたセンサーにも引っかけたもので、スタートは電子部品が主製品だった。それが家庭電化製品の分野にまで進出したきっかけは、ビデオのVHS対ベータ戦争だった。  VHS用ヘッドの下請け生産をしていたセンテックスに、ある日、ベータ陣営に属していた大手家電メーカーの幹部社員が現れ、極秘のうちにVHSデッキのOEM、すなわち相手ブランドによる代行生産を持ちかけたのである。センテックスはこれを了承し、その家電メーカーは三か月後突然VHSへの転向を発表した。そして、センテックスが製造し、そのメーカーのブランドを付けたVHSデッキが市場に出回るに至って、日本でのホームビデオ方式の大勢は決した。  センテックスはさらに一年後、そのメーカーとのOEM契約の打ち切りを見越し、自社ブランドでのデッキ生産に踏み切った。これにあたっては敢えて低価格路線を取らず、マニアに訴えるような斬新なデザインと広告、そして実際に優秀な性能と操作の簡易さとで先発メーカーのシェアに食い込むことに成功した。続いてセンテックスはオーディオ部門にも進出し、この分野でも折からのNIESブームに反発するかのように高級機志向を続け、ミニコンポ復活の先鞭をつけた。  ここまでは誰でも知ってることねと真美は思った。そのセンテックスの開発部長である中村康夫が匂わせた『新製品』について、資料は何も語ってくれない。当然と言えば当然のことだが、ハイテク・リサーチ調査部長の立場としてはそれで済ますわけには行かなかった。 「あいつ、何を企んでるんだか」と真美は声に出して言った。 「−−お早うございます」  真美がその声に目を上げると、原田俊一郎が白い歯を見せて立っていた。 「なんのお調べですか」と言って原田は身を乗り出し、CRTを覗き込む。真美はやむなく半身の体勢となった。「ははあ、センテックスね。なるほど」 「なるほどって原田さん、何か知ってるの。ここについて」 「まあ、エレクトロニクスショーの初出品に手を貸した関係で多少は知ってますが」  その程度なら真美と大差はない。だいいち真美が中村と知り合ったのも、センテックスが初めて大型見本市に出品するのを演出したことが縁となっている。 「原田さん、今日忙しい? もしできたら探って欲しいことがあるんだけど」 「そりゃ氏家さんのご命令とあらばたとえ火の中水の中ですよ、なんでもお申し付けください」  原田はいつもの調子で大仰に請け合った。三十を二、三は越しているはずなのに独身で、それは個人の自由で構わないのだが、氏家さんをなんとしても嫁に貰うと仲間内でも公言して憚らないのには真美も閉口している。ただ、こうしてべたべた甘えたがる割りには一向に行動を起こさないのは単なるマザコンか、あるいはホモセクシュアルなのかも知れない。 「実はね、ここで何やら新製品の匂いがするのね。ブーミングにかけられるものならやってみる価値があると思うの」 「氏家さん、まだ中村部長と付き合ってるんですか。妻子ある男との不倫はいいかげんにして、僕と結婚しましょう」  原田の冗談が図星であるだけに真美が何も言えずにいると、井上はるみが出社して来て、 「お早うございます」と声を掛けてくれた。 「あ、井上さん、お早う」と原田がハイトーンの声を出した。  こいつは女だらけの環境に向かないのかもしれないと真美は思った。ハイテク・リサーチは、女性社員の占める割合が派遣社員やアルバイトも含めれば八〇パーセントを越す女所帯である。女性は男だらけの環境の中でも比較的自己を保っていられるが、逆の場合はそうはいかない。やたらマッチョ風を吹かすか、朱に交わってなよなよとしてしまうか、男だけで固まってしまうかいずれかである。原田をどこかに出向させようか、と真美は考えた。しかし急に男だらけの中に放り込んで潜在的ホモセクシュアルが顕在化したらどうしよう。いや、それはそれで本人のためかも知れない。まったく管理職はこんなことまで考えてやる必要があるのかしら。真美は馬鹿馬鹿しくなってくる。自分が仕事一途だとかドライだとか思われているのは承知していた。その内実はこんなにウェットなのよ、全く。もっとも口に出して愚痴を言うのは、たまに実家に帰ったときに限られていた。 「氏家さんがね、次のターゲットはセンテックスだと言うんだけど、井上さん何か聞いてる」  原田が小娘を扱うように言った。年下の女性に対してはそれだけで優越感を抱いているらしい。  はるみは、ちらりと目を輝かせた。真美と中村の仲を知っているのは子飼いの部下であるはるみだけであった。一人住まいをしている真美は万一のことを考え、私生活のすべて、連絡箇所などをこの口が堅く聡明な部下に打ち明けていた。 「センテックスと言えば、ポータブルCDのライセンスで多少もめていたと聞いておりますが、その辺でしょうか」はるみは真美の目を見ながら言った。 「いまさらそんなものじゃブーミングにもならないよ」と原田がせせら笑った。  ブーミングというのは真美の造語で、ハイテク・リサーチ傘下のメディアを総動員し、故意にブームを巻き起こすことである。過去、『遠赤外線』、『ファジィ』、『デカーボンジオキサイド』、『ロジスティック・ロジック』など、本来は専門用語であったものを流行語にまで発展させたのはハイテク・リサーチの宣伝力の勝利だった。そして、ハイテク・リサーチにとっては何がトレンドなのか予め承知しているのだから、ブームを起こすことに成功しさえすれば、それに伴う特許、商標、キャラクター等々を独占することは容易であり、それらを各メーカーに売却することによって上がる利益は莫大なものとなった。一時業績が悪化していたハイテク・リサーチが持ち直したのも、この利益が他部門の赤字を吸収してなお余裕があったからだ。  真美はこのプロジェクトを創案し、成功させた功績でハイテク・リサーチの役員に就任した。ただブーミングの問題点は、日本人が甚だ飽きやすい事だった。どのブームも二年と続かず陳腐化する。しかも仕掛けたブーミングが空振りに終わることもしばしばある。打率五割としても半年に一個は新しいトレンドを作り出さなければならない。  どんな商品を消費者は望んでいるか、企業はどんなものを開発しようとしているか。それを耳触りの良い言葉で表現できるか、実験さえせずに書き上げた机上の空論に過ぎない特許をどうやって審査官に認めさせるか。それらの作業はすべて真美の双肩にかかっていた。真美が日頃から情報収集に力を入れているのには、こうした背景があった。 「とにかく原田さん、今日一日、できる範囲でいいからセンテックスを調べて五時に報告してね。それを聞いてから今後どうするか決めるわ。はるみはちょっと待機していて。そう、十時になったらもう一度来てちょうだい。今日、午後からでも仙台に行って貰おうかと思うの」  真美は二人の部下を退がらせると、きっちり三十分間を取締役としての書類決済に費やした。      2  佐藤優は自分の趣味が探検だと思っている。小学六年生にしては変わった趣味で、それに付き合おうという物好きは、宮城県でも山間部といえるこのあたりの子供のなかには見当たらず、優はほとんど一人で行動していた。  優の最近の興味の対象は、自宅から5キロほど県道を登り、さらに山道を2キロ程入った所にある廃鉱山である。この鉱山の有りかは年上のいとこに聞いた。彼はまたほかの中学生に聞いたと言っていた。とすると結局は、地元の悪童どもに代々言い伝えられた禁じられた遊び場なのだろう。大人の背たけほどの狭い入り口は木の板が打ち付けられていたが、下のほうは湧水で腐って落ちており、四つん這いになれば子供なら楽に入ることができた。いつ頃稼行していたものかを示すものはなかったが、坑木もろくにないところを見るとかなり古い時代の狸掘りの跡らしい。  優は自宅から乗って来た自転車を坑口に置くと、ヘッドランプを頭に着けてデイパックを背負った。坑内に入ると微かに硫黄の匂いがする。中を十メートルほど進むと道は二つに分かれる。この間は右の道を進んだが五十メートルほどで次第に狭くなり、ついには行き止まりとなった。優は今度は左を行こうと決めていた。  優は分岐点に石を積み、左に進む。こちらの坑道は急に狭くなり、子供でも中腰で歩かなければならない。壁面の黄鉄鉱がヘッドランプの光を受けてきらきらと輝く。それを横目で見ながら一歩踏み出すと右足は不意に宙を踏んだ。  優はあわててその場にしゃがみ込んだ。坑道にはぽっかりと落とし穴が口を開いていた。 「縦坑だ」と優は呟いた。  坑道はその縦坑に向けて崩落したらしく、穴は大きく広がり、向こう側へ渡ることはできそうにない。しかも縦坑はすぐそこまで水没しており、その中に降りることも不可能だった。優は自分の探検が終わったことを確認するようにヘッドランプを頭から外し、あちこち照らしてみた。そして五、六メートル離れた左側の水面に奇妙なものを見付けた。虚空に向けて開かれた二つの黒い眼窩。  クロマニヨンだ、と優は思った。  先日読んだ科学雑誌の特集が原始人類で、水を湛えた縦坑に浮かぶ白々とした頭蓋骨はそれに載っていたイラストにそっくりだった。優は自分の大発見に胸を踊らせた。そしてヘッドランプを掲げながら穴の縁を伝ってできるだけその骨に近づいた。そいつはまるで入浴でもしているように水面から上半身を出しており、胸から下は水の中に続いている。身体の前に伸ばした腕は何かを探そうとしているみたいだ。その身体がTシャツをまとっているのを見て、優は初めて目の前の死体が原始人ではないことを悟った。  優はゆっくりと後退り、それから一目散に駆け出した。時々頭が天井をかすめたが立ち止まりもしなかった。坑口の板の割れ目をくぐり抜け、春の日差しに眩んだ眼を覆ったとき、優は漸く自分が黄泉の国から立ち返ったことを知った。  優が蒼ざめた顔で帰宅すると、母親は風邪と決め付けてさっさと寝床へと追いやった。優も自分からは何も話そうとしなかった。口に出した途端にあの骸骨が立ち上がって来そうな気がしていた。  二週後の日曜日、優に廃坑の有りかを教えてくれたいとこの光二が、探検ごっこの誘いに来た。優は、激しくかぶりを振った。 「あそこには骸骨がいる」 「嘘こけ」と中学生のいとこは偉そうに言った。「こわいんだろ、弱虫」  優はやむなく押し入れから探検装備を取り出し、一緒に自転車で廃坑に向かった。だが、坑口に着くと足がすくみ、光二がいくら引っ張っても動こうともしなかった。ここに至って彼も少しただ事ではないと感じた。 「どのへんだ」と光二は訊いた。 「真っすぐ行ったとこの二股を左に行くと池がある。その中」  光二は優のヘッドランプを借り、持参した懐中電灯もつけて坑内に入った。言われた通り分岐点を左に折れると水たまりにぶつかった。何年か前に来たときはこれより水位はかなり低く、縁を回って向こう側に行けたような記憶があった。彼は立ち止まって、懐中電灯をあちこち巡らしてみた。優の言うとおり、向こう岸に白いものがあった。  駐在からの連絡を受け、栗駒署の一行がジープで現地に着いたのはその日の午後三時を回ったころだった。駐在は四十がらみの風采の上がらぬ男だったが、中学生の通報を真実と判断する位の分別は備えていた。早速バイクの後ろに彼を乗せて現場に案内させ、自ら死体を確認し、また駐在所にとって返して本署に電話を入れたのだ。その間、優は忘れ去られたようにずっと坑口に座り込んでいた。  ジープから刑事たちが降りたとき、優はまだ放心したようにそこにいた。 「あの子供は?」最年長の千葉部長刑事が駐在に尋ねた。 「第一発見者です。この廃坑で遊んでいて、オロクに当たったらしいっす。−−通報者はそのいとこの中学生ですけど」  駐在はそう言って優のそばでにやにやしながら立っている光二を目で指した。 「君らな、あとでおんちゃんに話聞かせてくれよな」千葉は子供達に声を掛けた。優はぷいと横を向いた。  ジープを運転して来た制服警官がバールを取り出して、坑口にうちつけられている板を剥がし始めた。かがめば入れるくらいまで開くと千葉は彼に坑口で立哨するように命じ、ほかの警官たちは駐在の先導で一列になって坑内に入った。 「地元の消防団にも声を掛けましたが、最近の百姓は日曜日は休みと心得て町に出掛けてるとかで集まりません。ま、そのうち来るでしょう」駐在は腰をかがめて歩きながら言った。声が狭い坑内に反響する。 「落盤の心配とかないのすか」と若い鑑識係が天井を見上げて言った。 「そりゃ、あるでしょう」と駐在は事もなげに言った。「細倉近辺は中世からの狸掘りの跡がいっぱいあってね、昔は小遣い稼ぎに入った奴が生き埋めになることもあったつう話だ。最近は子供くらいだけどな、入り込むのも」  鑑識係は心細そうに帽子をかぶり直した。 「じゃ、今度の仏もいつの時代のものやら分かんねえな」長身の千葉刑事はほとんど手が付くまで上体を倒している。「ま、子供が入ったりしねえように入り口はしっかり閉鎖したほうがいいね」  駐在は黙って進み、左股から水たまりに着くと、その先ですと言ってライトを頭蓋骨に当てた。 「なるほど」千葉は呟いて身を乗り出す。「肩まで温泉に浸かってますか、と。ははあ、Tシャツを着てやがる。こんじゃ江戸時代のもんじゃねえな」 「手は届きますか」と部下の川島刑事が訊いた。 「ちょっと無理だ。消防団にアルミ梯子でも持って来て貰おう。とにかく何人か向こう側に渡んねえと引き上げられねえな」  千葉は駐在に、バイクで村に戻って消防団を督促するよう依頼した。 「梯子とロープも頼む」と千葉は付け加えた。 「写真撮ります」と鑑識係がストロボの付いたカメラを構えて言った。千葉たちは目を背けた。  撮影が終わると千葉たちは坑外に出た。全員が一斉に煙草を取り出し火を点ける。 「消防団、遅いっすね」と川島刑事が言った。千葉は、うんと生返事をしながら優たちに歩み寄る。しゃがんでいた光二が目を上げた。「君ら、前からここを知ってたのかな」と千葉は言った。 「おんちゃん、刑事か」と優が口を出した。「警察手帳は持ってっか」  千葉は素直に手帳を出して見せた。優は手を伸ばしたが、千葉は素早く内ポケットに戻した。 「君らは未成年だし、うちで親父さん立ち会いで事情を訊いてもいい。どうする」 「おやじならもう来る」と光二が言った。「消防団長だかんな」 「ほう、そうか。ならここで待ってたほうがいいな。ぼちぼち話でも聞かせてくれや」  千葉は煙草をくわえたままそこにしゃがみこんだ。優が光二に促されて名乗ったあと、死体発見のいきさつをしゃべり出す。川島刑事もいつの間にか近寄って来て、手帳にメモを取り始めた。  二人の少年が話し終わったころ、遠くにエンジン音が聞こえた。千葉は立ち上がりながら言った。 「光二君な、何年か前にもここに入ったと言ったね。いつだかはっきり分かるか」 「六年生の時だからおととしだっちゃ」 「そのときは骸骨に気付かなかったのかな」 「うん、あの縦坑もあれほど水が溜まってなかったし、だいたいもっと狭かったと思ったけんど。縁を伝って向こうに行けたはずなんだ」 「地震で広がったんじゃねえかな」と川島刑事が呟いた。  千葉が、近頃そんなに大きな地震があったっけかと訊こうとしたとき、消防団員がハイエースに乗って到着した。刑事たちが一歩退がって待っていると、運転席からはっぴを着た男が降りて来てつかつかと光二に歩み寄り、物も言わずに頭に拳骨を食らわした。 「なにしゃあがんだ、父ちゃん」と光二は不服そうにいった。 「馬鹿、こんなとこで遊んでっから余計なことに巻き込まれたんだ。ちゃんと勉強しねえと仙台の高校なんか行けねえぞ」 「父ちゃんだってパチンコしに行ってたんじゃねえのか」 「なんだこの野郎、親に向かってそのいいぐさは」 「あの、ご教育はまた帰宅されてからということで」千葉は親子の間に割って入った。「栗駒署の千葉と申しますが」 「あ、これは刑事さん。この度はうちの馬鹿伜が余計なことをしでかしまして」と団長は金歯をみせてぺこぺこする。 「いやいや、お陰で仏さんが浮かばれるんだから、功徳つうもんです。それより暗くならんうちに早く片付けましょう」 「そう、そうですな。みんな、梯子を降ろしてけれ。おい、ロープとライト、持ってんな。気を締めて行けよ。オロクは白骨と駐在から聞いたけんど、担架も一応用意しました」  ばたばたとバイクの音を立ててちょうど駐在が到着した。 「おう、遅かったな、行くぞ」 「団長、県道で一〇〇キロも出す奴があっか」 「緊急出動だ、しゃああんめえ」  団長は高笑いしながら坑口に向かった。三人の消防団員と五人の警官たちは慌ててその後を追う。子供達はしばらく躊躇していたが、好奇心が恐怖心に勝ったとみえて、やがて坑内に足を向けた。  現場はカドニカサーチライトと三個のバッテリーライトとで煌々と照らし出されていた。アルミ梯子が向こう岸まで渡され、一人を残して全員が死体の側に立った。 「胸から下は腐ってないみたいだな」川島が配られた軍手を着けながら言った。 「現場での検視は可能な範囲に止める」と千葉が言って、死体の状況を口述し始めた。もっとも、記録すべき材料はすぐに尽きた。 「やっぱり、上げて貰わねと、駄目だな」 「身体にロープを掛けて引き上げっかな」  団長はそう言ってロープで輪を造り、死体の回りに沈めてゆっくりと引いた。ロープは胴のあたりにひっかかり、死体が揺れた。 「誰か、首、押さえろ」と団長が怒鳴った。「首が落ちる」  白骨化した頸椎は脆くなっているらしく、頭蓋骨が外れかかった。一人の団員が手を伸ばして頭蓋骨を押さえた。水が揺れて泥が沸き立った。 「意外と重い。足のところを持ってくれ」  さらに一人が死体に取り付いた。鑑識係は盛んにストロボをたいている。その中を死体はようやく担架に横たえられた。消防団員たちは皆、水浸しであった。 「遺留品とかないかな」と千葉が言った。 「ちょっと見えませんね。潜らねえとなんねえかな」 「まあ、明日アクアラングを頼もう。さて、とりあえず仏様を運ぼうか。ん、どうしたんだ」  千葉は消防団員たちが凍りついたようにたちすくんでいるのに気がついた。 「身体が……生きてるみたいだ」と団員の一人が言った。 「何を馬鹿な」と千葉は言って死体の側に立って見下ろした。「これは││屍蝋になってやがる」  引き上げた死体の肌は、生気のない鼠色ながら原型をそのまま止めていた。BVDのTシャツとリーヴァイスのジーンズというその格好も、されこうべの顔が仮面に見えるくらい妙に似合っている。しかも急に環境温度が変化したためか、その死体は小刻みに震えてさえいた。 「とにかく、外に出よう」千葉は団長に強く声を掛けた。団長はひとつ頷いてブルーシートを担架に掛け、先棒を掴んだ。岩陰に隠れて、その様子を覗いていた子供達もあわてて坑口に向かった。  坑道の外はすでに夕闇が迫っていた。団員たちは担架をハイエースの荷台に乗せ、濡れたはっぴをジャンパーに着替えている。子供達も何食わぬ顔で車にもたれていた。  千葉は団長に近寄って言った。 「ちょっと相談があるんだが。この仏さんなあ、仙台の医学部まで連れてってくれんか」 「言われねでもそのつもりだ」団長は言った。「行くのは俺だけでいいべな。子供とほかの連中は帰してやってけれ」  千葉は頷いて礼を言い、ジープに戻って署に無線を入れた。  井上はるみは出張先の仙台市のホテルで『河北新報』を開いていた。氏家真美の指示はセンテックスの工場周辺を調べ、増設ラインの建設や人員の新規採用の有無を調べることであった。もちろん地元紙の求人欄や産業欄を調べるのもひとつの手段である。  だがその朝、はるみは社会面の下のほうの小さな記事から、どうしても目を離すことができなかった。 『廃坑に不審死体     地元の小学生が発見』      3  中村康夫は取締役連中の頭の固さにほとんど苛立っていた。十七年程前、ベンチャービジネスからスタートしたセンテックスであるから、役員と言っても若いものだ。それなのに昨今の好況ですっかり守りの姿勢に入っている。銀行から派遣されている副社長はまあいいとして、技術担当の常務ですら社長の鼻息を伺っている。これじゃなんのための会議だ。いつからこの会社は社長の私企業に成り下がったというのだろう。やはり仙台から東京に本社を移したのが誤りだった。中村は立ち上がって発言する。 「ですが、SIVを次期主力製品とするという方針はすでに前回の会議での決定事項のはずですが。それを今更BSチューナーに変えろと言われては開発部の立場がありません。わたしだってどの面さげて仙台に帰れますか」  副社長がただちに反発した。 「君、そう言うけど、NIESブームが去った今、消費者の高級機志向は高まっとるよ。あえて冒険するよりも、既製のものを高級化する路線の方が安全じゃないか。それにこの間の会議で多少欠陥が残っているから時間が欲しいと言ったのは君じゃないのかね」 「確かにそうは申しましたが、路線変更となると認めるわけには参りません。それに主要な欠陥はすでに解決しております。本日は最新の試作品も持って来ております。どなたかモニターしてみてください」  中村は熱を込めてそう言い、紙袋から小さい段ボールの箱を取り出した。 「僕はいやだよ」と専務が言った。「この間の試作品じゃすっかり酔っぱらっちゃって晩飯も食えなかった」 「そうだな、三〇分以上頭痛も起こさず我慢できたらもう一度検討しようか」社長が中村の顔を立てるように言った。「わたしが見てみよう。ちょっと貸してくれ」 「社長、三〇分やれたらゴルフボール半ダース差し上げますよ」と常務がおもねるように言った。  中村は段ボール箱を開け、ヘッドセットとディスクマンほどの小さな機械を取り出した。 「ほう、随分コンパクトになったな」 「入れ物はまだ小さくできます。シートディスクの径は8センチで十分ですから」  中村はそう言いながら機械を持って社長に近寄った。 「ヘッドセットもFRPにして軽くしました。装着した感じはいかがですか」  社長はサンバイザーのようなそれを頭にかぶり、目庇を下ろす。目の前に半透明のゴーグルがセットされた。 「オフの状態なら視界はサングラスと同程度かな。あまり気にならんよ」 「若く見えますよ、社長」と常務が言う。 「ロボコップ」と誰かが言った。社長は声のしたほうに顔を巡らす。  中村は話が逸れるのを恐れるように、本体部を社長の目の前に置いた。 「これが本体で、ここを押すとウインドウが開きます。ここにシートディスクを挿入します」  中村はプラスチックケースからシートを一枚抜き出してそこに宛てがう。シートはたちまちウインドウに吸い込まれた。中村は社長の後ろに立ち、跳ね上げてあったイヤーマフを下ろした。 「わたしの声も聞こえますでしょう」  社長は黙って頷く。 「では、スタートします」  中村は本体に手を延ばしてスイッチを入れた。かすかに回転音が聞こえる。社長は黙ったままじっとしている。 「もう、始まってるのか」と副社長が不審げに言った。 「ええ」と中村が答える。「音漏れはほとんどカットしました」 「夏は少し暑そうだな。耳覆いも眼鏡も」 「そうですね、デザインはまだ改良の余地があると思います」  会話はそれで途切れた。全員がヘッドセットをかけたままの社長を注視している。そのまま何分かが過ぎた。 「馬鹿みたいだな、こりゃ」と専務が言った。「僕らは何をしてるんだ」  中村はにやりと笑った。 「そこが狙い目です。もし隣にいる人がこのSIVを着けて夢中になっていたら、たいていの人は好奇心を抑えられないと思います。それはそんなに面白いのか、と彼は訊くでしょう。面白いよ、とそいつは答える。だけど一人用だし、今使っているから貸すわけに行かないよ。それで彼はどうするか。直ちに最寄りの電機屋に飛び込むってわけです」 「そううまく行くなら苦労はないよ」と副社長はいかにも苦労人のような声で言った。「ところでSIVってなんの略だっけ」  中村はこいつら覚える気があるのかと情けない思いで、一語ずつ押し出すように言った。 「ステレオ・イメージ・ヴュアー」  そのとき社長が頓狂な声を上げた。 「うん、こりゃいいわ。中村君、これで行こう。−−なあ、今度『青い珊瑚礁』のソフトを作ってくれんか。ほら、若い頃のブルック・シールズの出てるやつ」  氏家真美もまたいらだたしさを押し隠していた。そう簡単に情報が入るはずもなかったし、センテックスと言えばノーマークに近かったのだからコネも中村以外には確保していない。その中村がビジネスとして交渉して来るのであれば、事前にその内容を把握していて、ああ、そのお話なら私共でも内々で検討しておりましたと言うのと、全く初耳でした、一から教えて下さいと言うのとでは値切られ方にもイニシアチブにも大きな違いが出てくる。  仙台に出張させたはるみからは今日のところは収穫なし、また明日連絡するとホテルから電話があった。ところが原田に至っては、知り合いに当たって情報を仕入れて来ると言って社を出たきり電話もよこさない。全く近ごろの若い奴は、と真美はひとり舌打ちをした。だいたい、もう夜の十二時を過ぎているのに中村さえ帰って来ない。本当にカプセルホテルに行ったのかしら、それとも遊び歩いているのかしらと真美は考え、どうでもいいのよ、あんなやつと首を振った。しかし、ビジネスの対象としてなら話は別だ。いざとなったら明日センテックスに電話を入れようと真美は決めて床に就いた。  翌朝原田は明らかに寝不足の顔をさげて出社して来た。 「どうしたの、やつれちゃって」 「仕事です、仕事。調査費、認めて下さい」 「結果しだいね。なにか掴めたの」 「うちからセンテックスに派遣した社員と、バイトを紹介した登録社員とをしらみつぶしにあたりました。そのなかに、これはと思うのがあって、飲みに連れてったんですが、いやとんでもないうわばみで、ぐいぐい飲んだはいいが、そのあとゲロの世話までさせられて……」 「ちょっとちょっとぉ、いいかげんにしてよ」 「僕だっていいかげんにしてほしいですよ。でも彼女のお陰でヒントくらいは掴めました」 「彼女って、それ女の子なの」 「そりゃそうですよ、うちの派遣社員はほとんど女性ですから。おんなが飲むくらいで驚いてるんですか、氏家さん」  あんたが女の子に親切している図に驚いたのよ、と真美は思った。「ま、それでなんか分かったの」 「SIVという言葉、聞いたことないですか」 「何かの略語かしら。SDIとは違うわね」  原田は首を振った。 「ステレオ・イメージ・ヴュアーだそうです」  真美は続きがあると思って原田の顔を見たが、彼は何も言わない。「それで終わりなの」と真美は言った。 「はあ、今のところは」 「たいしたヒントね。││それが新製品の名前ってわけ」 「そうじゃなかったら、BSだそうです」 「それは分かるわ。衛星放送でしょ」 「彼女の話によると、一月ほど前に社長と副社長がSIVかBSかと言う大論争をやらかして、会議室の様子が筒抜けだったそうです。もっともどういう機械だとかの議論はなくて、どっちが売れるかという低次元の話だったため、製品の詳細については、いまいち……」  真美は溜息をついた。 「モトローラあたりで、バーチャル・リアリティってやってたわね。コンピュータ画像の立体化で、単に疑似体験だけじゃなくを、人間の動きもリアルタイムでシミュレーションに取り込むの。日本のメーカーも最近手を出してるけど││あんな物かしら」 「それじゃセンテックスにとっても二番煎じになるでしょうし、需要からいえばどうですかね」と原田が言った。「僕は家庭用ホログラフィじゃないかと睨んでいるんですが」 「その子はどう思ったのかしら」 「なんにも」と原田は肩をすくめた。「頭はからっぽ」  彼女を抱いたな、と不意に真美は悟った。 「とにかく調査は続けてちょうだい。多方面から」と真美は釘をさした。  その日の夕刻になって、仙台のはるみから真美に電話が入った。「宮城野区にあるセンテックスの工場では年明けから新しい棟の建設に入っています。新年度からのパート募集も熱心で、新製品を出すのはやはり間違いないようです」 「その内容は分かるかしら。原田君の話ではステレオ・イメージ・ヴュアー、略してSIVだと言うんだけど」 「商工会議所その他公的機関では何も掴めませんでした。ただ、地元の新聞社の話では、センテックスではレーザーディスクのコンパクト化に成功したという噂だそうですが、公式には発表していません」 「とすると、やっぱりポータブルLDテレビってとこかしら。ありがとう、だんだん掴めてきたわね。中村さんの思いどおりにはさせないわ。そっちはどう、あと何も探れないようならもう帰ってもいいのよ」 「ひとつお願いがあるんですが」と、はるみは切り出した。「実はこっちでひとり身元不明の死体が発見されたもので、実は明日にでも確認に行こうかと思うんです」  真美は少し言葉に詰まった。五年ほど前に、はるみの兄が突然行方不明になったというのは聞いていた。はるみがハイテク・リサーチに入社したのはそれ以後のことだから細かい事実関係までは知らないが、大学院で電子工学を研究していた彼は、なんの痕跡も残さずにアパートの部屋から姿を消したという。 「でも、お兄さんは筑波の大学に行ってたんでしょう」と真美は言った。「別人じゃないの。きっとどこかで元気にしてるわよ」 「ええ、そうだといいんですが、新聞の記事を見たとき、何か胸騒ぎがしたんです。オカルトなんて信じる私じゃないんですが。わがまま言ってすみません」 「いいのよ、一日や二日くらい。出張にしとくから。それでね、ついでに中村部長の私生活をちょっと探ってくれる。いじめる材料にするから」 「はい、分かりました」と言ってはるみはくすくす笑った。「また明日連絡します」  電話が切れた。真美は受話器を下ろして椅子を回した。  さて、と真美は考えた。たとえ相手が恋人の中村とは言え、利用されるだけではつまらない。どうしたら新製品の尻馬に乗って稼ぐことができるか。  これからでは時間が足りないなと真美はすばやく判断し、受話器を取ってボタンをたたいた。 「センテックス、東京本社でございます」 「ハイテク・リサーチの氏家と申します。そちらに、仙台支社の中村部長様がご出張と伺っておりますが、お呼び出しいただけますでしょうか」  少々お待ち下さいと言って電話は保留された。工作には一日でいいだろうか、と真美は考える。あまり延ばしたら不自然だ、しかし一週間は東京にいると言ってたな、あさってあたりにしよう。 「お待たせ致しました」と同じ女性が言った。「申し訳ございませんが、中村は会議中とのことで、ご伝言があれば承りますが」  これは好都合、と真美は思った。「実は調査関係でお目にかかるお約束でしたが、部長様もお忙しそうですので、明後日にさせて戴きたいとお伝え戴けますでしょうか。時間についてはご承知と存じます」 「かしこまりました。ハイテク・リサーチの氏家様、明後日ですね」  きちんと相手を確認してから電話が切れた。  真美は机いっぱいに紙を広げ、思い付くプランを猛然と書きなぐり始めた。彼女は自分が生き生きしていることを感じていた。      4  井上はるみは仙台中央署の係官に付き添われ、東北大学医学部の門をくぐった。案内された地下の霊安室は強い薬品臭が立ち込めていた。 「大丈夫ですか。ちょっと損壊がひどいですが」と係官が心配そうに訊いた。  はるみは頷いて言った。 「兄が行方不明になってから何度か身元不明の仏様を見ておりますので」  係官はそれなら、と言ってステンレスのロッカーを開け、ストレッチャーに乗せられた死体を引き出した。 「司法解剖に付されたため開腹して臓器類は切除していますが外見は変わっていないと思います。三十歳前後の男性、身長約170センチ。死後二年と見られていますが、高濃度の鉱泉に浸漬していたため屍蝋化して、胸から下はよく保存されています。残念なことに顔がね……」  係官は死体を前にしているという気まずさを紛らせるためか頻りに話しかける。はるみは目の前の灰色に変色した身体を丹念に見たが、兄の手足の形やからだの特徴など覚えているはずもない。 「頭蓋骨及び上半身骨格、さらに下半身の肉体及び骨格に損傷なし。内臓の疾患及び損傷も特になし、か。要するに死因は今のところ不明です。手の部分も白骨化あるいは漂母皮形成のため指紋採取不可と……困りましたな。それから、虫垂も手術していないそうです。お兄さんは?」  はるみは首を横に振った。 「そうですか、するとまだ可能性はありますね。−−お母さんなら子供のときお風呂に入れたりしたでしょうから、ほくろの場所とか分かることがあるんだけど、ご健在なら……」 「いえ、はやくに亡くしました」 「それはどうも……。じゃ、歯医者のカルテは取れますか」 「それも、以前に調べたのですが、あいにくよく分からないのです。というより、ほとんど歯医者さんにはかかっていなかったらしいんです」 「それだったら、歯が悪かったら別人ということになりますね」係官は手に持ったクリップボードに目を落とした。「うーん、故人の歯は処置済が二本、C1が二本、比較的良いほうと言えるでしょうが、さて、決め手となるとねえ、ご両親がご健在なら血液型から調べる手もあるんだが、せめてお父さんだけでも来ていただけますか」 「実は父も先年亡くなっております」 「それはまた」不幸な一家だなあと言う言葉を飲み込んで係官は言った。「それじゃ、妹さんでもないよりはましかな……一応採血して行ってください。照合結果は改めてお知らせします。その間、お兄さんの写真とか歯科のカルテとか、もしあったら集めて置いて下さい」  係官は死体を再び冷蔵室にしまいこみ、はるみを促して部屋を出た。  センテックス開発部長の中村の家は、仙台市北部の泉区にある。はるみは行き先を運転手に告げた後、タクシーに揺られながらぼんやりと兄の事を考えていた。あの頭だけが白骨化した変わり果てた姿は、兄なのだろうか。見せられた着衣も記憶にはないものだった。そもそも、五年前に何の前触れもなく消えた兄の姿を完全に思い出すのもすでに難しくなっている。  兄の失踪の翌年には捜索に疲れたのか、父までも病に倒れこの世を去った。そして独りぼっちになってみると、自分の使命は兄を捜すことであると、はるみには思えた。しかし手掛かりは何も残されていなかった。はるみは思い付くままに私立探偵社のアルバイトを始めた。人探しの要領だけでも学ぼうと思ったのである。  はるみは短期間内勤をしたあと、希望して現場調査に回った。もっとも昨今の探偵社では、浮気調査が大きな収入源だったし、経済調査は駆け出しに勤まる仕事ではない。はるみの仕事はホテルの外で張り込み、カメラを構える役だった。  はるみが自分の仕事に疑問を持ち始めたころ、一組の男女を撮影する機会があった。男のほうは顔を隠して一目散に逃げたにもかかわらず、女性のほうはその場に残って、カメラを持っているはるみに、どうしてこんなつまらない仕事をしているのかとまじめな顔で訊いたものだ。それが氏家真美との出会いだった。  真美ははるみをハイテク・リサーチに誘った。はるみに事情を聴いたうえで勧めたのだ。  −−たぶん、お兄さんは企業戦争に巻き込まれたのね、と真美は言った。部屋からはノートとかパソコンとかもなくなってたんでしょう。なにか重要なこと研究してたんじゃない。それもどこかの企業から研究委託を受けていて、ライバル社に引き抜かれたとかね。だったら、ハイテク・リサーチで仕事したほうがいろんなメーカーに入り込めるし、お兄さんを見付ける可能性はあるわよ。あんなフォーカスごっこやってるよりあなたのためよ。  とすると、わたしがハイテク・リサーチにはいれたのは兄貴のおかげか、とはるみは苦笑した。運転手が訝しげにルームミラーを覗いている。  真美と出会ってはるみの人生は大きく転換した。ハイテク・リサーチではまず展示会のコンパニオンの仕事が与えられた。それは単なる飾りや添え物ではない。メーカーが新製品を発表する場で、機械やコンピュータのデモ運転から特長、納入実績まで客に説明する重要なポジションだった。はるみはここでさまざまな企業の顔を表も裏も知ることができた。そしてテクノロジーの先端知識も必要最低限ながら身につけることができた。兄を捜すといっても子供のお遊びのような探偵ごっこから、兄は何を研究していたのか、企業間の開発競争はどうなっているか、人材資源である学生、院生の就職状況はどうなっているか、そうしたもろもろのデータを根本的に検討できるまでになった。  単なる駆け落ちだったりしたら怒るからね、とはるみは思った。ま、それならそれでもいいけどさ、父さんはともかく私にまで秘密なんて許せないわよ、絶対。  そういう文句をぶつける相手もないまま五年が過ぎた。  そして、はるみは思い出した。兄の研究室に一冊だけ残されたノートに書かれていた文字、PIV。そして先生方や同輩たちの言葉。  −−井上君は画像処理の研究をしてましたけど、細かいことまではちょっと。彼、秘密主義でねえ。ウォークマンのビデオ版みたいなものだとは聞いたことがあるな。でもソニーも8ミリビデオのポータブル再生機は出す予定でしょ、それに勝てるかななんて言ったらつむじ曲げちゃってね、あ、こりゃ失礼。  氏家真美は、センテックスがSIV、ステレオ・イメージ・ヴュアーを売り出すと言っていた。とすると、PIVはポータブル・イメージ・ヴュアーの略称ではないだろうか。この推測が正しいとすると、兄とセンテックスには何らかのつながりがある。 「運転手さん」と、はるみは声をかけた。「すみません、急用を思い出したの。仙台駅まで行っていただけます」  運転手はえっと言って車を停めた。 「どこいくのっしゃ」 「土浦」 「今からだと常磐線はしばらくないかも知んねえな。新幹線で上野までいったん出て、戻んねっかなんね。それでも行きますか」 「ありがとう、お願いするわ」  運転手はそんならと言って路地に入って方向転換し、もと来た道を戻り始めた。  中村個人の調査は少し待って貰おう、とはるみは思った。もしかするとこちらが本命だ。ハイテク・リサーチにとっても、わたしにとっても。  栗駒署の千葉部長刑事は仙台中央署に電話を入れた。一昨日持ち込んだ身元不明死体について何か判明したかを尋ねるためだった。「ああ、あれね」と中央署の刑事は言った。「解剖結果についてはファクスします。要は、身元も死因も不明。死後二年つうからまだそんなに古くはないけんど、わたしは悲観的な見方してますね。結局無縁仏になるんじゃないかな。……あっ、そうそう、今日、すげえ美人の子が来てたんだ」  彼は受話器を覆って、おい、あれはどうなったんだと誰かに怒鳴った。相手が何か応答する声が聞こえる。二人はしばらく話し合っていたが何か卑猥な冗談が出たのか、笑い声が起きた。千葉がじりじりし始めたころ電話口に声がした。 「お待たせ。なんでも昨日のは東京の娘で、仙台には仕事で来てて、偶然ホテルにあった『河北』で読んだんだと。五年前行方不明になった兄さんに年格好が似てるから確認したいって来たんだけどね、やっぱしはっきりはしなかったみてえだね」 「そんな美人が来るんだったら、俺も行っときゃよかった」と千葉は話を合わせた。「それで、歯型とか何かなかったの」 「それがないのしゃ。仕方ないから採血して医学部で調べて貰ったけど、親と兄妹じゃ違うかんなあ。可能性は残るとしか言えないそうだ。二親とも亡くなったそうだしねえ」  千葉は、またなんか分かったら知らせてほしいと言い置いて電話を切った。それから椅子にもたれて煙草に火を点けた。窓から見える栗駒山にはまだ雪が残っている。  死体発見とほとんど同時に東京から現れた娘というのは何者だろうと千葉は考えていた。仙台の刑事は、偶然仕事でとか兄思いの妹とか言っていたが、千葉はこれまでの経験から犯罪には偶然や美談の入り込む余地のないことを嫌と言うほど思い知らされていた。  例えばその女が心変わりした愛人を殺して廃坑に捨てたとしよう。東京に逃げたとしても、いつ死体が発見されるか心配で、いてもたってもいられない。それでわざわざ地元紙を購読して郵送させている。ある日ついに恐れていたことが起こる。馬鹿なガキが余計なことをして死体を発見するのだ。ここで犯罪者の心理としては二つに分かれる。さらに遠くに逃げ出したくなるか、あるいはなにか手掛かりを残してしまったのではないかと急に心配になるかだ。  恐らくこの女の場合は後者のパターンだと千葉は思った。心配の余り、見え透いた作り話をでっちあげてでも死体を見に来ずにはいられなかったのだ。身元を証明する手掛かりがないと聞いて今頃は一安心しているだろう。住所氏名は中央署に残しているだろうが、それが真実である可能性は小さい。  さて、どうしようか。千葉は続けて煙草に火を移した。これは単なるデカのカンというやつに過ぎない。人によっては一笑に付すだろう。だが聞く人が聞けば援助を惜しまぬはずだ。特に犯罪を憎み正義を愛する人が聞けば。  千葉は煙草を揉み消して立ち上がり、署長室に向かった。説得できる自信はなかったが、叩き上げの現署長とは、一脈相通じる所があると思っていた。      5  氏家真美が井上はるみからの電話を受けたのは午後八時を過ぎたころだった。 「ご自宅に一度電話したんですけど、まだ会社だったんですね」と、はるみは言った。 「うん、やりだしたら止まらなくなっちゃってね。明日一日で出せるトレードマークだけでも抑えるつもり。そっちは何か分かった?」 「実は、今、筑波なんです」  予想外の言葉に真美は驚いた。 「それ、お兄さん関係なの」  はるみは真美の語調に少したじろぎ、急いで言った。 「ええ、でも重要なことが分かりました。わたしの兄は自分が研究していた装置をPIVという略称で呼んでいたそうです」 「PIV……それ、ほんと?」  はるみは電話であることも忘れて激しく頷いた。 「わたし、それがセンテックスのSIVの原型だと思います」  真美は、ふーんと言って考え込む。 「あなた、これからの予定は」ややあって真美は訊いた。 「ここに泊まって明日仙台に戻ろうかと思ってますが」 「じゃ、こうしてちょうだい。宿はまだ取ってないでしょ。これからタクシーで代々木のわたしのうちまで来てくれる。高速使えば筑波から二時間もかからないと思うわ。いいかしら」  そう言われて泣きをいれるはるみではなかった。 「分かりました。すぐ発ちます」 「疲れてるでしょうけどお願い。一人で待ってるから安心して。晩ご飯も用意しとくわね」  はるみは明るく笑って電話を切った。  翌日の真美の行動は素早かった。定時より早く出社すると、はるみから得た情報をもとに『携帯用立体視ビデオ装置』、『ポータブルゲームアタッチメント』など三本の特許のプランを書き上げ、原田が来ると直ちに、今日じゅうに出願するように命じて草稿を渡した。続いて映画配給会社に電話を入れ、携帯用ディスクタイプ映像ソフトの独占使用権に対する契約が結べるかどうか打診した。ビデオテープ及びレーザーディスクについては既存の契約が存在するが、形式をほかの物に限定すれば可能であるという返事だった。真美はハイテク・リサーチに対する契約交渉の優先権を認めさせ、今日中に担当者を派遣すると確約した。そして再びパソコンに向かい、『透過光型ディジタルディスク映像ソフト使用権に関する契約書』の草稿を書き上げ、一人の女子社員を呼び、相手担当者のアポイントメントを取ったうえで交渉に出向くように指示した。もちろん今日のところは締結するには及ばない、優先権を確定させればよいと付け加えるのを忘れなかった。  そこで時計を見ると正午に近かった。真美はセンテックスに電話を入れた。今回は中村はすぐに電話口に出た。 「やあ、何年も会ってないような気がするなあ」と中村はのんびりと言った。「その後、お仕事のほうは順調ですか」  誰か近くにいるな、と真美は思った。真美にしたところで、会社の電話で、今夜うちに泊まりに来てなどとは言えない。 「ええ、おかげさまで。例の件で打ち合わせしたいと存じますが、ご都合はいかがでしょうか」 「うん、今日はこっちもなんとかOKです。実はここんとこずっと会議やらなんやらで、帰りも遅くてね」  これはよそに泊まったことの言訳らしい。言わずにいられないのがあの人の良いところね、と真美は思う。 「それじゃ、用意してお待ちしてますので」  真美は簡単に言って電話を切った。天下のハイテク・リサーチ調査部だ。中には切れる部下もいるからうっかりしたことは言えない。仕事が一段落して、真美は急に空腹を覚えた。  真美はキッチンで働きながら、二日も続けて人のために食事の用意をするのは何年ぶりかしらと考えていた。昨夜のはるみよりも今日の中村のほうが、多少内容がよいのは認めざるを得なかった。それが女の道だからなどと口ずさんでいると、ドアチャイムが鳴った。ドアを開けるとボストンバッグを提げて紙袋を抱いた中村が立っていた。 「ワインとレアチーズケーキを買って来た。はるみちゃんだったら大喜びだな」 「あなた、誰の嗜好にあわせてるの」  数えるほどしか顔を合わせたことがないはずの若い部下の好みを、中村がしっかり覚えていることに、真美は軽い嫉妬を感じた。 「いやあ、でも君の好みって急に思い出せないんだよね。君、やっぱり根は古い女なんだな。自分の好きなものって口に出したことがないだろ」 「わたしはダイヤとかミンクが好き」 「早く上げてくれよ。腹が減ってるんだ。いい匂いがするじゃないか」  中村は真美に紙袋を渡すと、押しのけるようにしてさっさと上がり込んだ。  男という動物はどうしてすぐ馴れ馴れしくなってしまうのだろう、と紙袋を胸に抱きながら真美は思った。そりゃ馴れれば可愛いかもしれないが、緊張感が薄れて行く。そしていつの間にか世間の家庭の真似事を始めることになるのだろう。  それでも真美は男の後を追ってキッチンに行った。 「今日のおかず、何? うわ、鯵の塩焼きに炒り豆腐じゃない。おれ、こういうの好きなんだよなあ。これでなめこ汁だったらもう泣いちゃうよ。えっ、そうなの。感激だなあ。その点、女房は全然駄目。得意料理はハンバーグとローストチキンてやがんの」 「悪口はいいから、手を洗って。お風呂はどうする」 「まず、めしにします」  食事の間はテレビもつけて、世間話や人の噂をしながら至極穏当に時が過ぎた。最後に、持参したケーキまで平らげて、中村は風呂に入った。一緒に入ろうかと中村は言ったが、真美は丁重にお断りした。  中村のために男物のパジャマを出してやりながら、真美は今でもかいがいしい妻になれる自分に苦笑した。もっとも、もはや誰とも結婚する気はなかった。ベッドメイトとして妻帯者を選ぶのはそういう事態になる恐れが少ないからでもあった。  中村が出たあと、入れ替わりに真美は風呂に入った。一人暮らしに馴れてしまうと自分が女であることも忘れがちになる。女は男の視線があってこそ女の魅力を維持できる。真美がどんなかたちであれ恋人を絶やさない理由はそこにあった。そして女の魅力は仕事のうえでも大きな武器となる。真美はもうすぐ四十歳とは思えない均整の取れた肢体を丹念に洗った。  真美がバスローブ姿であらわれると、中村は鼻を鳴らしながらやにわにむしゃぶりついて来た。 「これこれおじさん、どうしたの」 「けだものだもの」と中村はバスローブの中に顔を突っ込みながら言った。  仕事の話をしたら二人の仲もこれで終わりになる可能性もあるな、と真美は思った。それならまあ、先にやっとこうか。  真美は中村にヘッドロックを決めながら、寝室に導いた。  仕事のことを忘れない点では中村もひけを取らない。真美のなかで果てて五分もたたないうちにベッドから抜け出し、ボストンバッグを引きずって戻って来た。 「ちょっと、パンツくらいはきなさいよ」真美もやむなく起き出して、パジャマにカーディガンを羽織りながら言った。 「なんだ、失神してたのかと思った」 「残念ながら不感症なの。その宝物は何よ」 「これがねえ、わが愛すべき新製品です。おれ、機械フェチなのかなあ、これに触ると勃起するんだよね。ほら、見てくれ」 「あなた、それでよく奥さんに捨てられないわね。ほら、パジャマ、そこに落ちてるよ」  中村は不承不承衣服を身につけてから、バッグのジッパーを開き、慎重な手つきで小さな機械を取り出した。その形状は真美の想像通り、ヘッドセットと、ディスクマンに似た本体部から成っていた。「真美、ちょっとこっち来てくれる」  中村は真美を呼んで、自分の前に座らせた。そして真美の頭にヘッドセットを載せてゴーグルを下ろす。真美はそれが全く視界の邪魔にならないのに少し驚いた。 「じっとしてて、そう、馴れないうちは頭を動かさない方がいい。││いくよ、スイッチ、オン!」  とたんに真美の目の前で映像が弾けた。バック・トゥ・ザ・フューチャー・3のクライマックス、蒸気機関車の暴走シーンだった。真美は思わず声を上げた。 「何、これ、いやだ、動いてる」 「映画が動くのはあたりまえだろ。迫って来るというべきだな」と中村は得意げに言った。 「分かったわよ。でも、ちょっと怖いくらいの出来栄えね。−−うわあ」 「これが我が社の新製品、ステレオ・イメージ・ヴュアー、略称SIVです。ご感想は」 「うーん、参ったわね」  それは真美の偽らざる本音だった。井上はるみや原田を使ってセンテックスの新製品を探り、大体のところを突き止めはしたが、実物は予想を遥かに越えた性能を有していた。 「よーし、氏家女史のお墨付きが出れば大丈夫だ。ではいくつか実験してみよう。ちょっと斜め上あたりを見てごらん」  真美が言われた通り視線を上げると、途端に映像はかき消え、何の変哲もない部屋が現れた。急な変化にとまどって視線を戻すと、再び、機関車が走り始める。 「へえ、どうなってんの。これ、このゴーグルに映ってるんじゃないの。ホログラフィかしら」  中村は満足そうに鼻をこすりながら説明を始めた。 「実はこれは今までの意味での『見る』という行為ではないんですよ。人がある物体を見た場合、視神経は、網膜に映った光の像をアナログからディジタルに変換して脳に送るわけだよね。このステレオ・イメージ・ヴュアーの場合は、視神経の入り口、つまり盲点の部分を狙って、微弱なレーザーでディジタル信号を直接送り込んでいるんだ。だから極めて鮮明な画像を送ることができるし、真っ暗闇の中でも見ることができる。それだけじゃなくて、さっきやったように視線を外せば、レーザーの狙いも外れて映像を目の前から消すこともできる。実際には、水晶体の動きをセンシングしているから、視線の動きはそこでも感知して同時にディスクをポーズしている」 「その機能は何のためなの」 「そりゃ、これを掛けたまま街を歩いたり、電車に乗ったり、必要なら仕事もできるように。さらに言えば、教育用にも使用できるし、角膜障害者でも見ることができるし、とにかく娯楽だけでなく情報も含めてメディアを変革する、ながら族待望のすぐれ物ですよ」  へえっと真美は感心してヘッドセットを外した。 「あら、ちょっとめまいがするみたい」 「そう? まだちょっと軸がずれてるのかなあ。盲点の追尾が甘かったり、左右の信号にずれを生じたりすると船酔い症状を起こすことがあるんだ。ほとんど改良したはずだけど、君は敏感な体質なんだろうか」 「あわない人がいるっていうのは致命的よ」 「うん、もっと調べてみる。だけど、これ売れると思うだろ」 「思う思う。はまるわね」と真美はまじめな顔で言った。「ちょっと本体部を見せてよ。へえ、これがディスクなんだ」 「変わってるだろ。透過光型のディジタルディスクなんだ」  やっぱりここで出て来たか、と真美は思った。はるみの兄、井上修一郎の研究していたポータブル・イメージ・ヴュアーの原理は残されていた。コンパクト・ディスクのように複雑な製造工程やプラスチックの基盤を必要としないディジタルディスク、それが修一郎のアイディアの根幹をなしていた。真美の手にしたそれは、直径八センチほどのポリエステルのフィルムにトナーを定着させたもののように見えた。 「小型ソノシートってところね」 「おいおい、そりゃ死語だ。せめてフロッピィと言ってくれ。これ一枚で約三十分プレイできる」 「映画なら四枚もいるの。ちょっと面倒ね」 「今はほとんど手作りだからな。写真製版の解像度は最終的にはその三倍まではあげられると思う。それならまあまあだろ」 「えっ、これ、写真製版なの。なら、コストは一枚十円くらいか、あきれた」 「そのかわりすぐに汚れるから、せいぜい三回くらいで使い捨てになるけどな。だけど、ほとんどのソフトはそれで十分だろ」 「そうね、安くて回転の早いほうが、ユーザーもメーカーも喜ぶでしょうね」 「ソフトの供給についても腹案があるんだ」中村はシートをプラスチックのケースにしまいながら言った。「映画のソフトは売値二百円程度、ビデオのレンタル料より安くして、本屋、煙草屋、その他どこでも買えるようにする。それからSIV新聞を毎日印刷する。これをキヨスクに置いて貰えば、通勤電車の中で、活字ではなく、動く映像の入ったニュースを読むことができる。もちろんランダムアクセスだから、興味のないページは飛ばせばいい。好きな人はエッチな記事だけ眺めていても隣の奴に覗かれる心配もない」 「なかなか身につまされる意見ね。しかも映像も入ってるんでしょ。朝からそんなのにのめりこんでて大丈夫かしら」 「それは個人の自由、おれなら一日のやる気が湧いてくるな。−−ま、それで最終的にはテレビ映像のチューナーも付くようにするつもりだ。家庭用のテレビは今後ケーブル化が進むだろう。となると、無線テレビの生き残る道はポータブルしかない。テレビ局の方から提携を申し入れてくると思うよ」 「これ、テレビ信号も受けられるの」 「まだそっちは開発中だけどね、テレビ信号をリアルタイムで立体化、ディジタル化することは可能だ。現に今見た映画にしたところで、市販のビデオテープからコンピュータで人工的に立体化しているんだから。まあ、専用カメラを使った方がきれいな絵になるだろうけどな」  真美は溜息をついた。 「第一ラウンドは負けね」 「なんのことだ、そりゃあ」 「いいのいいの」と真美は手を振った。「ねえ、仕事の話は明日にしない? 表玄関からハイテク・リサーチに入って来てよ。正式な契約にしておきたいの。これは大きな商売になりそうだし」 「おれもそのほうがいいと思う。一度本社に行って、常務の許可を貰ってからそっちに行くわ。大キャンペーンをお願いするぜ」 「参考までにお聞きしますが、発売時期とお値段はいかほど」 「ヨンキューパーでどうだろう。発売は十一月をめざしているが、遅くとも歳末商戦には間に合わせたい。年内に五万台は売れるだろう」  随分控えめな数字ね、と真美は思った。恐らく経営陣はその倍は売りたいところだろう。年末から来年にかけて、よそが追随商品を出すまでに百万台くらい行くかもしれない。とすると五百億、宣伝費一〇パーセントとして五十億、うちの取り分はそのまた二〇パーセントというところか、ソフトも扱えばさらに倍になると真美はすばやく胸算用をはじく。とたんに中村が真美を抱き上げた。真美は思わず声を上げて、中村の頭をぴちゃぴちゃ叩いた。 「なにすんのよ、機械フェチはロボットでも抱いてりゃいいのよ」 「まあ、たまにはなま物もいいもんだ」  中村は真美をベッドに放りあげて挑みかかった。真美は中村の身体をあちこちつねって対抗したが、いつの間にか一緒にうねりに身を任せていた。  真美は中村の重みが身体から去ったあと、やさしく毛布がかけられるのを感じた。そして夢うつつの中で、中村が語り掛けるのを聞いていた。 「おれな、この仕事が終わったらセンテックスを辞めようかと思ってる。そして新しい会社を作りたいんだ。技術者の技術者による技術者のための会社と言ったらキザかなあ。最初のセンテックスの理念もそうだった。だいたい野球だってプレーヤーはマネージャーより高給を取ってるだろ。だから技術者は経営者より高給をとって当然なんだよな。ところがそんなところは一つもありゃしない。なら、おれが作ってやるさ。おい、聞いてんのかよ」 「ふーん……理想家」  そう呟いて、真美は眠りに落ちて行った。      6  千葉刑事は署長の承認を得て東京に出張した。もっとも署内では、先般発見された不審死体の身元調査ということになっていた。名目はどうであれ千葉は、井上はるみと名乗る女を追うつもりでいた。  仙台中央署に届けられていた川崎市高津区の住所には確かに井上という表札が掛けられていた。もっともインタフォンの呼び鈴を押しても誰も答えなかった。他人の名前を騙ったのかどうかは、はるみ本人を捕まえてみないことには分からない。千葉はとりあえず近所の聞き込みをすることに決め、ぶらぶらと溝の口方面に向かって歩き始めた。川崎と言えば煙突の立ち並ぶ工業都市を想像していたが、山の手のこのあたりは静かなものだった。  ただ、住宅街というのは厄介なもので、いざ人の話を聞こうとすると誰も通りに出ていないし、煙草屋は自動販売機が店番をしている。やむなく千葉は手近な一軒に立ち寄り、呼び鈴を押した。 「どなた」と太い声がする。 「興信所の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして」と千葉は古い手を使った。案の定相手は、「間に合ってます」と言って通話を打ち切った。  これが田舎だったら、庭から縁側に上がり込み、漬物とお茶をふるまわれながら世間話をしてぼちぼちと本題に話を持って行くという得意の手が使えるところだ。ところが都会ではけんもほろろ、取り付く島もない。無理押ししてドアを開けて貰っても気持ち良く供述してくれるはずもない。千葉はあきらめて隣に移った。  千葉がようやくこの街の住民の顔を拝めたのは、四軒目のベルを押した後のことだった。 「はいはい、どなた」と七十歳ほどと見える老女が玄関口から顔を覗かせた。  千葉がうんざりしながら作り話を繰り返すと、彼女はまあどうぞおあがりなさいと言って、千葉のために大きく硝子戸を開けた。千葉はしばらく信じられずに立ち尽くしていたが、再び彼女に声をかけられてその家の敷居をまたいだ。  通された応接間は一面に段通が敷き詰められ、古びた革張りのソファが置かれていた。 「どうぞお掛けになって」と老女は言った。「いま、お茶を淹れて来ますので」  千葉はあわてて断ったが、彼女は気にも止めず部屋を出て行った。千葉はやむなくそこに座り込んで部屋を見回した。壁には複雑な模様を織り込んだタピストリが掛かっており、一方の壁には飾り暖炉がしつらえてある。 「なんだか、すごいとこに来ちまったな」と千葉は呟いた。独居老人の暇潰しに選ばれたつうことか。もっとも年寄りなら土地のことはよく知っているだろう。  しばらくして老女が盆にティーポットとクッキーを載せて戻って来た。 「いや、これは造作かけます」と千葉は言って頭を下げた。 「いいんですのよ」と彼女はポットからカップに紅茶を注ぎながら言った。「お砂糖とミルクはご自分でお好きなだけお取りになって」  千葉は角砂糖を二個取ってカップに入れ、無造作に掻き回した。「あなた、東北の方でしょう」と老女は訊いた。 「はあ、言葉で分かりますか」 「死んだ連れ合いが福島の出身なの。似てるわよ」  言葉の話でも死人に似ていると言われてはいい気持ちはしない。千葉は直ちに用件に入った。 「実は、この先の井上さんの娘さんのことなんですが……」 「ああ、あそこのお嬢さんの……そう、もう適齢期ね、言われてみれば」 「はあ、それで縁談の相手と言うのが仙台でも有数の大地主で、いや、まだそんな段階じゃないんだけど、とにかく身元だけでも調べておけというわけです」  千葉は出任せを並べながら老女の表情を伺っていた。彼女は露ほども疑いを見せずに言った。 「ええ、ええ、井上さんのはるみちゃんならこんな小さいときから知ってますとも。あなた、そりゃかわいいし、しっかりした子でねえ、ちゃあんとあいさつもできるの」  二〇年前の話はどうでもよい、問題はここ数年の行動だ。 「ご両親はご健在ですか」と千葉は水を向ける。 「いいえ、それがねえ……」と言って老女は有らん限りの情報を吐き出し始めた。おそらく近隣のことで知らぬことはないのだろう。しかしその内容は千葉の意と反して、仙台中央署に現れた女の供述を裏付けるようなことばかりだった。 「なるほど、天涯孤独というわけか。大学はどうなさったんでしょう」 「お兄さんと同じところがいいと言って、筑波に行ったんですが、さて卒業されたか途中でおやめになったか、とにかくお父様が亡くなられてからはあの家に戻ってますね。新宿の会社に勤めてるそうですし。いまでも道で会えばちゃあんとあいさつしてくれるし、あれはいい子ですよ」  あいさつのことはもう分かった、と千葉は苦笑した。 「会社の名前は分かりますか」 「ええ、聞いたことがありますよ。さて、なんといいましたか……」と言って、老女はあたかもそこに看板が見えるかのように窓の外に目をやる。そのまま一、二分待って、千葉はあきらめて話題を変えた。 「ですが、女の一人暮らしは不用心ですな。まして、一戸建だし。心細さの余り誰か男が一緒に−−なんてことはないですか」 「あら、大丈夫よ」と老女は笑った。「はるみちゃん、空手の有段者なのよ」 「へえ、それはそれは」 「ねえ、とてもあのかわいらしい顔立ちからは想像もできないでしょう」  そう言われても千葉は顔立ちすら想像できない。彼は話題を変えた。 「それで、お兄さんはまだ見つかっておられないんですな」 「ええ、もし見つかってたらわたしの耳にも入って来るはずよ」 「なにしろ、大地主の財産分与の問題も絡んで来ますからな、ここははっきりさせとかないと」と千葉は熱を込めて言った。「まだ失踪宣言も受けていないんですか」 「わたしもそういう立ち入ったことまではねえ」と老女は言葉を濁した。  聞くべきことはだいたい聞いた、と千葉は判断した。それから二、三、当たり障りのないことを話して、千葉はその家を辞去した。 「もしこの話が纏まるようでしたら、また改めてお礼に伺いますので」と千葉は去り際に言った。 「あら、お礼なんかいいんですのよ、楽しかったわ」  そう言って彼女は丁寧に頭を下げた。それを見て千葉は母親ほどの年寄りを騙したことを多少後ろめたく思った。  千葉は再び駅の方面に歩を向けながらあれこれ考えていた。美人の娘が一人暮らしということになると、仙台中央署に現れた女は、井上はるみである可能性が高い。するとこれは、おれの見込み違いか。千葉は交差点で立ち止まり、煙草に火を点ける。しかし、デカのカンは何らかの犯罪が行われたと警報を出している。あの死体はやっぱり殺しだ、と千葉は横断歩道を渡りながら思った。そして、はるみは何かを隠している。よし、次は井上はるみの足取りを追おう。  そう決めると千葉は急に空腹を感じ、手近な食堂に飛び込んだ。そしてカウンターに座るとラーメンを注文し、スポーツ新聞を広げた。贔屓のオリオンズはシーズンが始まったばかりというのに早くも5連敗を喫している。まったくあのまま仙台にフランチャイズを置いときゃ良かったのにと千葉は不満そうに鼻を鳴らした。途端に壁際のテレビが、今日午前十一時頃仙台市の繁華街で三〇歳くらいの男が、と馴染みの地名を流し始めた。千葉は新聞を置いてその画面に目をやった。  平田健二は指令者が自分に命令する声を聞いていた。それで彼は自分の使命を思い出した。戦いは神聖である。平田はシャワーを浴びてから真新しい下着を身につけた。そして少し考えてから重要なことを思い出した。武器の授与をまだ受けていない。自分の位が低いせいだと彼は考えた。早く戦果をあげなくては。正戦士になれれば破邪の剣やビームガンを与えられる。それまではナイフが妥当なところだろう。  平田はジャンパーを引っかけてポケットに財布をねじ込み、外に出た。ズボンは一着しか持っていないスーツのボトムだったが、一向に気にならなかった。春風が妙に心地よく、太陽の光は真っ白に輝いている。平田は折よく通り掛かったタクシーに手を挙げた。 「一番町、青葉通り」  平田は乗り込むと明るい声で言った。そしてカーラジオがしゃべっているのに気付くと不機嫌そうに、「うるさい。指令が聞こえない」と言った。  運転手は不審そうに振り返ったが、平田の据わった目と視線が会うとあわてて前方に向き直った。そして、ラジオも無線も切ると何事もおきませんようにと神仏に祈りながらスピードを上げた。白バイに捕まるものなら捕まえて欲しかったが生憎そういうときに限って警官はよそに呼ばれているらしく、一向に現れない。運転手は飛ばしに飛ばして、とうとう一番町に着いてしまった。 「着きましたよ」と運転手は注意深く言った。右手は懐中電灯を握り締めている。  しかし相手は財布から一万円札を一枚抜き出して前に放り出すと、自分でドアを開けてさっさと出て行ってしまった。運転手があわてて舞い落ちる札を押さえて、お客さんお釣りと言ったときにはすでに彼の姿は雑踏に紛れていた。  平田は金物屋を探していた。  この街並には記憶があった。指令者と出会う前に何度か来たことがある。広瀬通りに向かって右側、そう、そこに大きな金物屋がある。ナイフはガラスケースに入っていた。  平田が財布を握りながらその幅広のナイフを出してくれというと、店員はこれは上物です、大事に使えば一生ものですなどとおべんちゃらを言いながら箱に入ったままケースのうえに置いた。平田はそれをつかんだ。握りがしっくりと指に沿う。そのとき平田は指令を聞き、それで目の前の店員の顔に切りつけた。店員は血しぶきを上げながら倒れた。平田は嫌悪に顔を顰めると財布を丸ごとケースの上に投げ出した。もはや金などはいらない。ほしい奴が受け取ればいい。  平田は店の外に出た。目の前に若い女がいた。ちゃらちゃらした格好、明らかに処女ではない。だから平田は切りつけた。女は奇妙な声をあげる。二人目、レベルが上がった、と彼は思った。あと何人屠れば戦士にふさわしい武器が授与されるのだろう。  平田は皮膚がむずむずするのを感じた。ナイフを口にくわえ、ジャンパーとシャツを脱ぎ捨てた。下着はナイフで引き裂いた。そして平田は自由になった。  井上はるみは仙台の市街図を買うために、書店の店先にいた。  近くで悲鳴があがるのを耳にして、はるみは店を出てみた。 「人殺しだ、ナイフを持ってるぞ」と誰かが叫んだ。逃げて来る者と、駆け付けようとする野次馬とがぶつかりあっている。その渦中に返り血を浴びた全裸の男がいた。男は逃げ惑う人々の背中にナイフを次々につき立てていた。人垣が割れて、途端にはるみは男と正面から向かい合った。  はるみは間合いを取った。熟練したナイフ使いに対しては、はるみ程度の空手の腕では怪我の元となる。はるみは挑発するように蹴りの真似をしてみる。男は驚いたようにめちゃめちゃにナイフを振り回した。筋肉のついていない薄い胸が痛々しいほどだった。  素人が幻覚を見ている、とはるみは思った。シンナーかシャブか、いずれにしても正気でないだけに始末が悪い。警官が来るのを待った方がいいか。  はるみの躊躇をつくように、男は身体ごとぶつかって来た。はるみはかろうじて左に跳んだ。同時に向こう脛に足払いを掛ける。男はもんどり打ってブロック舗装の道路に転がった。しかしまだナイフを離さない。はるみは駆け寄ってその掌を踏み付けようとしたが男は素早く立ち上がって切りかかって来る。はるみは身体を開きざま左手で鳩尾に一発正拳を入れた。何も鍛えたことのない男の腹は柔らかく、男は胃を抑えてその場にしゃがみこんだかと思うと声をあげて吐き始めた。はるみは血にまみれたナイフを拾いあげた。そのとき人垣を掻き分けて、制服警官が四名現れた。 「それを渡せ、おとなしくしろ」と一人がはるみに言った。  はるみがナイフを差し出すと警官は引ったくるようにしてそれを受け取った。別の警官が歩み出て、はるみの腕を掴み、手錠を掛けようとする。それを見て野次馬たちが口々に騒ぎ出した。 「おい、その娘さんは違う。人殺しはあっちで転がってる奴だ」  警官たちはそこで初めてうずくまっている裸の男に気付いた。警官たちは顔を見合わせ、男に近寄って回りを取り囲んだ。他に武器を所持している様子はないと見て取り、一人が肩に手を掛けた。  平田健二は敗北を認識していた。敗北は死で贖え。指令者の声が聞こえる。たかが魔女ごときにやられた自分が情けない。これでは戦士などお笑い草だ。死の制裁は当然だろう。だがナイフさえ既に奪われている。なんという屈辱。指令者は決してお許しになるまい。だが覚悟を見せればあるいは。  平田はよろよろと立ち上がり、群衆に向かって舌を突き出す。そしてその舌を思い切り噛み切った。群衆がどよめき、平田を讃える。平田の願いは聞き届けられ、魂は正戦士に列せられるだろう。  警官たちは何が起こったのかすぐに気付いた。苦痛に顔を歪めて倒れた男に駆け寄り、口を開かせようとする。だが男は歯を食いしばっている。血を吸い込んでいるのか、喉がごろごろと鳴っている。一人がボールペンをポケットから出し、歯の間に差し込もうとしたが、プラスチックの軸はすぐに折れてしまった。一人は救急車を呼びに走った。  はるみは呆然と成り行きを見ていた。近所の商店主らしい男が、はるみが乱闘の中で落としたバッグを差し出した。はるみは黙って頭を下げる。 「あいつ、ヤーさんかな」と彼は言った。「あんた、強いね」  はるみは適当に相槌を打った。それよりこの場からどうやって消えようかとそればかり考えていた。もっとも逃げたら立場は一層まずくなる。逡巡しているうちに間延びした救急車のサイレンが近づいて来た。      7  ハイテク・リサーチを訪れていたセンテックス開発部長の中村に、仙台支社から電話が入ったのは午後三時を過ぎた頃だった。主要な協議は既に終わり、契約書の作成や具体的計画の立案など、実務的な作業が残されていた。  はい、中村ですと言って受話器を取ったその顔が見る見る蒼ざめた。ほんとか、ほんとかと何度も聞き返すのを見て、氏家真美はただ事ではないと思った。 「どうなさったんですか」真美は中村が受話器を置くと間髪を入れずに訊いた。「お宅にご不幸でも?」  中村は首を振った。 「もっと悪い」と言って辺りを見回す。「テレビはありませんか」「会議室か食堂になら。−−事故ですの?」 「この時間じゃニュースはやってないかな。実はウチの社員が殺人の現行犯で捕まったと言うんです。−−それも、仙台で」  真美は予想外の答えに絶句した。中村は唇を噛んで机のうえの書類をまとめ始めた。 「とりあえず仙台に帰らないと。一度本社に戻って常務に引き継ぐとして、詰めの作業には明日誰かをよこします」  真美はかける言葉もないままブリーフケースの口を開いて差し出した。中村は手早くそれに書類を突っ込み、椅子に掛けていた上着を羽織った。 「じゃ、詳しいことが分かったら電話する」中村は真美の目を見て小さい声で言った。 「お願いね」と真美は言った。「SIVに影響がなければいいけど」  中村はきっと表情を変え、熱っぽい口調で言った。 「そんなことは絶対にない。いや、おれがさせん。−−絶対に」  真美は中村の豹変ぶりに、知らない一面を垣間見たような気がした。真美は先に立って応接室のドアを開けた。 「送っていただくには及びませんよ」 「ちょっとテレビ見てみるの。中村さんは?」 「僕は本社に行くよ。そのほうが確実だ」  中村は手を挙げて応接室を出て行った。真美はその後ろ姿を一瞥してから会議室に向かった。そっと中を覗いて見ると、幸い誰も使っていない。真美は部屋に入ってプロモーションビデオの試写に使っている三十二インチのスイッチを入れる。お昼のワイドショーが終わりにさしかかっていて、今日のニュースのおさらいをしていた。 「何と言っても今日の大事件はこれでしたね」とキャスターがわざとらしく眉をひそめて言った。画面が血痕の飛び散る商店や舗道の絵に切り替わる。 「異常者の殺人、怖いですね」 「はい、それにしても、犯人を取り押さえた井上はるみさん、お手柄でした」と相方の女性アナが答え、画面に昂然と顔を上げて警察署に入るはるみのスチールが出た。 「あらら」と思わず真美は声を出した。「何のこっちゃ」  テレビの話題はすぐに変わって、どこかのニュータウン造成工事で役人が収賄とかいうニュースとすら言えないことを始めた。真美はテレビを消してあれこれ考えながら会議室を出る。その途端、ぱたぱたと駆けて来た女子社員と鉢合わせしそうになった。 「あら、ここにおられたんですか」と彼女は言った。「お電話がかかってます、井上さんから」  真美は頷いて自分の席まで走った。 「井上です」真美が受話器を取ると相手が言った。「実は大変なことになっちゃって」 「殺人事件があったらしいね」 「ニュースでやってました?」 「うん、それにいままでここに中村部長がいてね、彼のところにも電話が来たのよ。どういうことよ、はるみのお手柄って」  はるみは手早く自分が目撃したこと、犯人と闘ったことと彼の自殺、証人として警察で聴取を受けていたことを説明した。 「でも、あの人がセンテックスの社員だったなんて、刑事さんに聞くまで全く知りませんでした」 「どうしてそんなにすぐ身元がばれたの。……つまり犯人は裸だったんでしょ」 「最初に入った金物屋にお財布が落ちてたそうです。そこに身分証と名刺までいれてたから、初めから隠すつもりもなかったらしいって。それに服も第二の被害者を襲った後で脱ぎ捨てたんだそうです」 「つまり、性的な異常者じゃないのね。テレビのニュアンスとかなり違うな」 「刑事さんは覚醒剤の幻覚症状に似てるって言ってました。皮膚を虫が這い回る感じになって服を着ていられなくなり、裸になってしまうんだそうです。でも、身体を調べても注射の痕もないし、家宅捜索しても薬はなかったらしいですね。たぶん単純な精神障害ということで処理されそうです」 「単純ったって……やられたほうも災難ね」と真美は溜息をついた。「これでセンテックスの評判が落ちなきゃいいけど。−−それでこっちの問題はあんたよ。この銭形平次」 「あら、キンジー・ミルホーンと呼んでください」 「どっちでもいいの。中村部長殿に、なんではるみちゃんは仙台にいるのって訊かれても答えられないわよ」 「……そうですね」 「仕方ないわ。あなたのせいじゃないし、国民的英雄を苛めるわけにもいかない。原田君を替わりにやるわね。あなたは休暇で松島旅行をしていたことにするから、今夜はアリバイ作りに大観楼にでも泊まってちょうだい」 「それ、ホテルですか」 「うん、知り合いがいるの。電話して、あなたの名前で無理やり一人予約しておくよ。どうしても空いてなかったら団体さんに押し込めるから」 「はい」 「そんな情けない声出さないの。費用は会社持ちだし、いいとこよ。じゃ、あした午前中に原田君がそっちいくから、これまでのとこ引き継いで、はるみはこっちに戻ってね」  はるみは素直に返事をして電話を切った。真美は受話器を置くと、直ちに原田を呼び寄せた。  原田は何か事件が起きたことを嗅ぎ付けたように、にやにやしながら近寄って来た。真美は一瞬人選を誤ったかと思ったが、他に適当な者もいないし、原田の嗅覚と粘着性はこういうとき役に立つかもしれないと思い直した。  真美は机の前に立った原田を、傍らの打ち合わせ用の椅子に座らせ、今までの経緯を詳しく説明した。原田はその間、真面目な顔を作り、口を挟まずにじっと聞いていた。彼はこの女上司の気質を飲み込んでいた。与えるべきデータはすべて与え、後は部下の自己裁量に任せる。果たして真美は言うべきことを伝えると、じゃお願いね、経理に口座番号を言っといて仮払いさせるからと言って話を打ち切った。 「あの」と原田はやむを得ず訊いた。「期間のめどはどのくらいでしょう」 「なにか掴めるまで−−と言いたい所ね。毎日じゃなくていいけど、小まめに電話ちょうだい。ファクスでもいいから。……あ、それから今度の事件もちょっと探ってみて。錯乱の原因に労働衛生上の問題があるかもしれない。例えば、半導体工場での砒素の扱いとかね。それとも無理なシフトを組んで労働者のストレスが溜まってるとか」 「はい、分かりました。お任せ下さい」  原田はそうそうに引き下がった。質問すればそれだけノルマが増える。まあぼちぼち新緑の候、杜の都への出張も悪くはない。退屈したら、あの女を呼び寄せて旅行気分としゃれこむのもいいだろう。それから井上がミスって自分がフォローするというのも気に入った。原田は自分の席で所持品をまとめながら、この出張の得失についてなおもあれこれ考えていた。  中村康夫は、顔の筋肉がともすればチックのようにひくひくと痙攣しそうになるのを押さえ付けていた。一体何が起こったというのだろう。いや、その答えは知っている。問題は自分がそれを認めたくないことだ。  中央線の快速は空いていた。中村は深く座席に腰を掛けていた。そうでもしないと足が勝手に駆け出そうとする。  くそっ、と中村は呟く。隣に掛けていた男があからさまに眉をひそめ、尻をずらして遠ざかって行く。  平田健二の危険性については十分注意していた。興奮性の発作を起こしてからは開発部のポストから外し、サービスに回した。それが裏目に出たか。中村はいらいらと唇を噛む。くそっ、SIVが見たい。唐突にそう考えた自分に気付いて、中村は思わず辺りを見回した。隣の男は尻移動を続け、すでに一メートルほど離れている。  しかし、平田については、定期的に訪ねてそれとなく監視するよう部下に命じて置いた筈だ。何も兆候が現れていなかったのか。それとも、あの野郎、まさか勝手にあれを持ち出したんじゃねえだろうな。  そこまで考えて、中村は慄然とした。警察は平田のアパートを捜索するだろう。いや、もはや取り掛かっているに違いない。たぶん薬物を常用していたと疑って。そして、そこで見慣れない機械を発見したとしたら、彼らは証拠物件として押収しようとするだろうか。中村は腕時計を見る。そしてすぐにそれが無意味であることに気付く。東京にいる自分がうらめしい。やきもきしたところで、なるようにしかならない。−−おそらく、捜査官たちは、そんな物には目もくれないだろう。  中村は希望的に考えることにした。  平田については平身低頭、これしかあるまい。全くの監督不行届で、ええ、日頃挙動不審な点は気付きませんでした。春の異動でポストが変わったからそれで悩んでいたのかも知れません。ただ、彼はあまり外に向かって言うタイプじゃなかったもので。もちろん被害者の方々には心からお悔やみを申し上げますが、保障と申されましても……。  電車は神田にさしかかった。とにかく、と中村は立ち上がりながら自分に言い聞かせた。これのせいでSIV発売計画に支障をきたすようなことがあってはならない。  千葉刑事は屈辱を噛み締めながら、東北新幹線ホームに続く長いエスカレーターを降りていた。たとえ日帰りであろうと、公費を使っての出張であることに変わりはない。それが、噂好きの婆さん一人の供述を得たに止まり、肝腎の井上はるみに至っては、仙台でマスコミの寵児となっている。いくら千葉ひとりが疑ってみた所で、もはやあれがご本人であることに間違いはない。身元調査など全くのお笑い草、住所氏名年齢から勤務先まですべてマスコミが調べて公表してくれた。さすがに私生活に立ち入ったことまではまだ放送されていないようだが、女性週刊誌が取り上げれば、そして井上がそれに乗じて兄を捜そうとすれば、孤独な境遇は格好の話題となるだろう。  あの井上はるみさんに新事実! 行方不明の兄は今どこに。  見出しが目に浮かぶわい、と千葉は自由席に腰を下ろしながら思った。しかしこれですべてが解決したわけではない。あの仏の身元については皆目不明のままだし、仮に井上の兄だとしても、なぜ縁もゆかりもない細倉の廃坑に入り込んでいたのか。  いつしか列車は出発し、地下から這い出そうとしている。すでに上野の町も闇に包まれていた。  あの仏が地元の者が迷い込んだのではないとしたら、やはり殺されて、捨てられたと見るべきだろう。千葉は缶ビールのプルタブを開けて、溢れでた泡を啜り込む。あんな暗くて冷たいところで辛かったべ。待ってろ、おれが恨みを晴らしてやっから。  千葉は黙って缶を挙げた。      8  七夕から旧盆が過ぎると、東北はいつもの落ち着きを取り戻す。秋は紅葉、冬のスキーと呼び物が続くとはいえ、やはり稼ぎ時は夏だった。  だから細倉の鉱山資料館に現れたその若い男のことは、館員もよく覚えていた。 「ウイークデーに一人で来るのは大体歴史か資源の学生さんなんだけど、あの人は東京のサラリーマンって感じで、なんつうか少し場違いだったね」  千葉刑事は冷房の効いた館内でもなお滲み出す汗を拭いながら言った。 「最初から最後まで一人だったかね」 「ここではそうだったと思うけどね」 「車で来たのかな」 「見てたわけじゃないけど、バスだったら何人か固まって入館するし、たぶん車でしょう」 「その車は、これかな」  千葉は一枚の写真を出した。館員はひらひらと手を振った。 「だめだめ、見てないつったでしょ」 「車に誰か残ってたとか、そのくらいはどう」 「わかんないっすね、はっきり言って。顔や服装はさっきの写真の人と思うけど、それ以上はだめです」 「これか」と言って千葉は別の一枚を取り出した。館員はあわてて目を閉じた。 「もう見たくないっすよ、刑事さん。しまって下さい」  その写真には、車の運転席で腐敗しかかっている原田の死体が写されていた。  千葉は外に出てまた汗を拭いた。アスファルトで固められた駐車場に日陰はなく、車は見事に焼き上げられている。温暖化現象か何か知らんが確実に毎年暑くなって行く。もうすぐ九月だというのに、東北のこんな山里でさえこれだ。もっとも今年はマサルの奴がつぎつぎ死体を発見してくれるお陰で、山里の刑事も忙しい。  栗駒署に佐藤優の親父から電話が入ったのは三日前のことだった。八月二十日、夏休み最後の日を記念して、優は一人でまた廃坑方面にサイクリングに出掛けた。そして県道から少し入った所に白い車が停まっているのに気付き、何となく運転席を覗いた。 「よく腰を抜かさなかったもんだ」と優の親父は言った。「将来、医者か刑事になるんじゃねえか」  確かにあの膨れて悪臭を漂わせている死体を見ながら、落ち着いて親父に教えたというのは子供にしては上出来だ。それにしてもおれなら何かに祟られてるんじゃねえかと思うところだ。親馬鹿というのは度し難い。  千葉は車に乗り込んですぐにクーラーを掛ける。からだにべっとりと張り付いた下着が気持ち悪い。  死体の身元はすぐに分かった。免許証も名刺もポケットに入っていた。死因もすぐに分かった。左胸の見事な刺創。血を噴き出す力もないまま息絶えたのだろう、出血はシャツを染める程度に止まっている。おそらく犯人もそれほど返り血を浴びてはいない。凶器はナイフか出刃包丁のような鋭利な刃物と推定されたが、付近を捜索しても見当たらず、犯人が持ち帰ったものと思われた。  それにしても、と千葉は車を出しながら考える。またも出て来たハイテク・リサーチつうわけだ。ありゃ何だ、疫病神の集団か。  原田俊一郎、三十二歳。株式会社ハイテク・リサーチ調査部勤務。死体を確認したのは故人の親父だが、一緒に現れた調査部長というのが垢抜けたいい女だったのにはたまげた。井上もまあ美人ではあったが、やはり年増の落ち着きが好ましい。  えい、俺は何を考えてんだと千葉は首を振る。四月に廃坑で発見された死体も結局身元不明のままだし、この件もお宮に入るようなら出張ってきている県警の連中に何と言われることやら。  原田の乗っていた車は、仙台駅のレンタカーで、白のスカイラインだった。せめて外車だったらもう少し注意を集めただろうが、被害者の足取りを追うだけでも一苦労だ。特に車が貸し出された八月十六日はUターンラッシュのピークで、応対した係員も、借りたのが原田本人だったのかあるいは別人だったのか、同乗者はいたのかなど捜査官が質問しても首を傾げるばかりだった。  千葉は、細倉を訪ねたよそ者が立ち寄りそうな施設を回ってみることにした。そう言っても、それほど呼び物が多い訳ではないから、鉱山資料館の館員が覚えていてくれたのは唯一の収穫と言って良い。これで3点だけだが被害者の動きの線が引ける。  十六日午前十時、車を借りる。同日午後一時半頃、細倉の資料館に現れる。そして同日午後三時頃には現場で既に絶命している。まっすぐ細倉まで殺されに来たようなもので、ほとんど道草を食う余裕はない。  待てよ、と千葉は考えた。道草は食わなくとも昼飯くらいは食ったはずだ。胃の内容物は何だったか、と千葉は車を路肩に寄せて停め、書類入れを探った。解剖所見を引っ張り出して見ると、麺類が残っていると記されていた。それなら車の中でカップヌードルでも啜ったのでない限り、どこかのドライブインなり食堂に入ったことになる。仙台からここまで道沿いに何軒の飯屋があるかを考えて千葉はうんざりしたが、まあ高速を使ったとすればかなり絞られるなと思い直した。とにかく一軒ずつしらみつぶしに当たって、この写真を見せることだ。それにしても早く生前の写真を送って貰わないと、食堂ではいい顔をされないだろう、と千葉は車を再び発進させながら苦笑した。そして、同乗者がいたとしたら、昼飯くらいは一緒に食うに違いない。  千葉が同乗者にこだわるのには理由があった。車に残されていた手帳のスケジュールには、十六日の欄に『9.30、stn.Nと』と記されていた。これは、九時三〇分に駅でNなる人物と待ち合わせたものと解釈できる。そして、車を借りる直前に人に会ったということは、そいつと一緒にドライブをするためだったと考えるのが自然だろう。さらに、放置されていた車を調べた結果、助手席周辺はきれいに指紋を拭き取られていたことが分かった。また、争った形跡もなく、車の周囲にほかの車の轍もない。状況から見て、被害者と一緒に現場まで同乗して来た犯人が、原田を殺害したあと徒歩で立ち去ったと考えられた。犯人の逃走経路については別の班が追っている。千葉の班は犯行当日の状況を再現することにかかりきりとなっていた。  氏家真美は化粧鏡に映る自分の顔を眺めて、目尻の皺の増殖を確認していた。  全く皺も増えるわよ、と真美は自分に向かって呟いた。  原田の死体が発見されたとの知らせは、まずハイテク・リサーチに入った。  −−その者は確かに私共の社員です、と真美は栗駒署の問い合わせに答えた。はい、仙台方面に出張させておりまして、実はここ二、三日連絡がないので心配しておりました。  管轄署の千葉と言う刑事は、他殺の疑いがあると自分からは言わなかった。真美が状況を問いただしたのに対し、しぶしぶ答えた。  −−致命傷は胸の刺し傷です、凶器は見つかっていません。  もちろんそんな複雑な自殺はないに決まっているから、真美は原田の父親に対し、はっきりと伝えた。  −−残念なお知らせですが、ご子息の俊一郎さんが出張先で亡くなられた模様です。はい、事故ではなく何者かに殺されたものと思われます。確認には私も参ります。ええ、仙台駅で待ち合わせましょう。  もっとも、死体とのご対面は、父親が伜に間違いないというので勘弁して貰った。捜査官の話では、見たら二日は食事が喉を通るまいとのことだった。それから遺品を整理して、証拠価値がないと警察が判断した物のうち、会社に帰属する物は真美が引き取った。調査ノートは返されたものの、手帳についてはスケジュールが記されているからということで警察が預かった。真美にとってはノートが返っただけでも有り難かったが、その内容は貧困の一語に尽きた。原田がそれほどずぼらな性格だったとは思えないだけに、それは真美に疑いを起こさせるのに十分だった。  あいつ、わたしに隠れて何を追っていたんだろう。真美は唇に紅を引きながら考える。センテックスに関する報告では、労働条件の厳しいことや、フロンの使用など環境対策の立ち遅れについて指摘していた。もっともそんなことはハイテク産業では定番と言ってよい。その手の報告でお茶を濁して、繰り返し仙台に出張する原田を黙認していたのは、彼が例の獲物を嗅ぎ付けた目付きをしていたからだ。そのうちまとめて鼻高々に報告するつもりだったのだろうが、死体になってはそれも叶わない。  ただ、真美が恐れているのは、原田の死にセンテックスが関わっている可能性があることだった。捜査官は、真美と父親に尋ねた。  −−当日、原田さんは、Nという人物と会ったらしいんだが、心当たりはないですか。  仙台のNといえば、真美は中村しか思い付かない。もちろんそれを口に出しては言わなかった。  まあ、中村部長殿は仕事の鬼だから、人を殺すような暇はないでしょうけどね、と真美は考える。  中村は社員の錯乱殺人で急遽帰仙して以来、東京には一度来ただけで、それも真美の部屋には立ち寄ってさえいない。ときおり電話はあるものの、内容はSIV一本である。発売まであと何カ月、準備着々、頑張りまっすと言った調子だった。いきおいSIVの情宣活動に関する交渉相手はセンテックス東京本社の者が担当することになったが、これがまた面白味のない男で顔を突き合わせているだけでげっぷが出る。中村の紹介でなければ出入り禁止にしているところだ。  真美は身支度を整え、部屋を出る。鍵のかかる音が早朝のコンクリート廊下に響いた。昨日も原田の葬儀のために休んでしまった。井上はるみがフォローしてくれているから大丈夫とは思うが、ブーミングの仕掛けも最終段階に入っている。九月一日を期して全国紙の全面広告を押さえているし、それ以降に発売される雑誌にも発売予告広告を打つとともに、一般科学雑誌では理論の特集、ビデオ・ゲーム雑誌ではソフトの可能性に関する特集が組まれることになっている。テレビ方面がやや弱いのは難点ではあるが、とにかく向こう二か月間これを続ければ、この国の国民はSIVに対する好奇心で沸き立つばかりになっているだろう。そして、十一月一日の発売日を迎えるのだ。  −−ほんとに十一月一日に間に合わせてよ、と真美は中村に念を押した。さもないと、センテックスもハイテク・リサーチも焼き打ちに会うわよ。  −−はっはっ、大丈夫だよ、たぶん、と中村は笑った。  全くあの脳天気、あのときはあれほど蒼ざめていたくせに、仙台に戻ったとたん元気回復している。もっとも回復してくれないことには真美の立場もまずくなる。ハード関係の特許はセンテックスの特許に対抗するに至らなかったが、ソフト面では真美の売った手が功を奏し、映画関係、ゲーム関係ともハイテク・リサーチが代理店となって製作販売を請け負うことになった。さらに駅売りのビデオ新聞についても、来年早々にはまず夕刊の形でスタートしたいと思っている。そのためにはハイテク・リサーチもかなりの投資を強いられていた。  真美は電車に乗って新聞を広げた。女がこういうことをすると、男たちは珍しい物体でも見たような目付きをする。まあ、今に見てなさい、こういう風景は過去の遺物になるから。真美は、SIVのフェイスセットを掛けたサラリーマンが吊り革にずらりと並ぶ情景を想像して、思わず微笑した。そうなれば男も女も情報に対して平等になるだろう。  真美は社会面を開いた。すでに原田の件は新聞種から消えている。一時は新聞記者やテレビのレポーターまで現れて、どうなることかと思ったが、全く心当たりがありませんで押し通した。原田やその家族には気の毒だと思うが、真美にとっては、あとは警察の仕事、わたしの仕事はほかにあると言いたいところだった。いやそれとも、言っちゃあなんだがあたしゃ今更殺しぐらいじゃ驚かないよ、とケツをまくってたんかを切れば受けたかもしれない。あたしの亭主だって殺されたんだ、腹の大きい女房を残してね。  真美は新聞を畳んでバッグに突っ込んだ。まあ、あんまり昔の思い出に耽ると身体によくない。そんなことより、ブーミングスタートまであと一週間足らず、遺漏が無いかチェックしなければならないことは多い。  真美がハイテク・リサーチに着くと、すでに出社していた井上はるみが明るい声で挨拶をした。他人の不幸を簡単に割り切れるのも若さの特権なのだろう。 「お早う」と真美が挨拶を返す。「昨日はどうも。どう、順調かな」 「ええ、SIVの方は予定通り進んでいます。ソフト関係は、ゲームアダプタの完成品もセンテックスからハニービーソフトに入ったそうで、すでに移植作業にかかっているはずです。映画のラインナップも大体決まって、順次LDから立体視処理をしながらSIVのシートに焼き込みを進めることになっています」 「センテックスはマイクロチップを予定数確保できたのかしら」 「一部は韓国製のコンパチを使うのは避けられないと言うことでしたが、信頼性に問題はないとのことです。すでに製造ラインも馴らし運転で動き始めているそうですよ」 「一日千台は造って貰わないと恐らく予約もさばき切れないことになるわよ」  真美はそう言いながら机の引き出しのロックを解除し、SIVの最新試作品を取り出した。軽量小型化は試作ごとに大幅に進められ、すでに厚手のサングラスと言っても通る程までシンプルに改良されている。第一期の商品では軽量化が極限まで追及され、チタンフレームが採用される予定になっていた。 「もういいかしら」と真美は言った。「ちょっと見させてね。そう、十分くらいでいいから」 「それ、そんなに面白いですか」と、はるみは首を傾げて訊いた。「朝の一服と言う感じですね」 「あ、それいいね、キャッチフレーズにいただこうかしら。……はるみは、これ嫌いなの」 「嫌いということはないですけど、自分が機械に捉えられているような気になります」 「そこがいいのかな」と真美は眼鏡の位置を調整しながら言った。「わたしが見ているのはイメージビデオだけど……砂浜で……わたし、海の町で育ったから……」  はるみは一礼して真美の前を離れた。はるみは真美と異なり、SIVの強すぎる刺激に危惧を抱いていた。自分の兄の失踪がそれに関わっていると思われるだけに尚更だった。それでもこの仕事に携わっていれば、いつか兄の足跡を見付けることができそうな気がしている。四月に廃坑で発見された死体は、手掛かりのないまま火葬に付された。その遺骨を引き取る決断はまだついていなかった。      9  その日の夕刻、井上はるみは帰宅途中で近所の松沢のお婆さんに出会った。 「ただいま」と、はるみは笑顔で挨拶する。  老女は、お帰りなさいと言って擦れ違おうとしたが、つと足を止めた。 「はるみちゃん」  老女の声に、はるみは振り返った。 「ねえ、あなたのお勤めの会社、ハイテク・リサーチって言わなかったかしら」 「ええ、そうですが」 「やっぱりね」と老女は頷いた。「ほら、この間、宮城県で殺された人がいたでしょ、あのニュースでハイテク・リサーチって言ってたの、どこかで聞いたことがあると思ったのよねえ。そう、はるみちゃんのとこだった。−−あの人、お知り合いなの?」  話が長くなりそうなので、やむなくはるみは向き直った。 「ええ、そりゃ小さい会社ですので」 「あら、ご謙遜。会社も映ってたわよ、まあまあのビルね」  はるみは苦笑した。ただの話相手ならそろそろ放免して欲しい気分だった。 「そうよね、前に一回聞いてたもの」と老女はなおも言葉を続けた。「でも、あの刑事さんに訊かれたときはどうしても思い出せなかったものねえ」  はるみは思わず大きな声を出した。 「おばちゃん、刑事さんて、誰」 「あら、言っちゃった」と老女は口に手をあてた。「いえね、私立探偵で、はるみちゃんの縁談調査なんて言ってたけど、あんまり見え見えのお芝居だったものでわたしにはすぐ分かりましたよ」  はるみにはどうにも事情が分かり兼ねた。 「それ、いつのことかしら。原田さんのことなの」 「原田さんって、今度なくなった方でしょ。いいえ、四月の話だもの」  四月と言われれば心当たりはひとつしかなかった。 「ねえ、その刑事さん、東北の方かしら」 「ええ、そう言えば少し訛りと言うか、イントネーションがね、福島かあのあたりという感じでした」  はるみは思わぬ横文字に面食らったが、女子師範卒という老女の経歴を思い出して納得した。それにしてもその刑事はわざわざ何を探りに来たのだろう。はるみは、昨年大阪で知り合った元刑事の話を思い出す。  −−刑事言うたら人を疑うのが商売やからな。 「ありがとう、失礼します」  はるみは松沢のお婆さんに頭を下げて家路を急いだ。  警察はわたしを疑っている。なんて事なの。口惜しさと腹立たしさに涙がこぼれそうだった。この仕事が一段落したら、ひとりででも兄の足跡を追ってみよう。ぶつかる先がセンテックスだったとしても構わない。はるみは、もはや小走りになっていた。誰にも自分の顔を見られたくなかった。  栗駒署の会議室が捜査会議に使われるのは久しぶりだった。細倉鉱山がかつて活気に溢れていたころでさえ、酒のうえでの喧嘩騒ぎはあっても殺しにまで発展することは滅多になく、まして計画的殺人とみられるよそ者の死体が発見されるなどということは、前代未聞だった。 「わたしらの班は、被害者の足取りを追ってました」議長席の署長に指名され、千葉刑事は立ち上がって発言を始めた。「現在のところ、4地点で被害者の姿が確認されております。まず、十六日午前十時、仙台駅レンタカーで白のスカイラインを借りています。免許証を控えられていますから、まず被害者本人に間違いはないです。それから、正午過ぎ、金成のインターを降りて県道細倉線に入った所にある『銀山』というドライブインでよく似た男が割籠そばを注文しています。そして……」千葉は言葉を切って、署長に目を向ける。「ここでは二人連れだったとのことです」  出席者の間にどよめきが起きる。初めて手掛かりらしいものに行き当たった興奮が、捜査官たちに慎みを忘れさせた。 「班長、それは男か」 「特徴とか分かるか、証人は信頼が置けそうか」  てんでに一同が質問を始めるのを署長が制した。 「まあまあ、部長刑事に続けて貰おう」  千葉は促されて手帳を開いた。「被害者の連れと思われる人物は四〇代と思われる男性で、眼鏡はなし。服装は半袖シャツながらきちんとネクタイをしていた。ちなみに被害者の服装をポロシャツにジャケットと間違いなく言っていることから、この証人の観察力、記憶力は信頼できると思います」 「よく覚えていたもんだなあ、昼飯時だろう。ドライブインが一番混むときじゃないの」 「証言してくれたのはそこのウェイトレスなんだけど、若いほうの男がその子をつかまえて、細倉まであとどのくらいとか、道は混んでないかとか東京弁で訊いたそうだ。さらにそれに対して連れの男が、おれはここの出身なんだから任せとけと言ったのを聞いて、思わず顔を見たそうです」 「それで−−その娘と顔見知りだったのか」県警から来ている捜査一課の庄子警部補が意気込んで尋ねた。 「いや、なんぼ田舎でもそれほど世間は狭くないっすよ。全く赤の他人だったそうです」 「そうか、そうだろうな」と警部補は納得した。「つまり、そいつがNだというわけだな」 「その可能性は大だと思います。−−それで、被害者の行動のほうを続けますと、そのあと彼は細倉の鉱山資料館で館員に目撃されています。ただ、ここでは一人だったそうですし、あまり目立つ行動も取らなかったので、目撃者の印象もそれほど強くはないです」 「それは何時ころと言ったかな」すでに口頭で報告を受けている署長がフォローした。 「一時半から二時頃とのことですが、証人の信頼性から考えるともう少し幅があるかも知れません。ただ同日夕刻、消化の進み具合から見れば早くて三時頃には殺害されたとの解剖見解ですので、二時すぎに資料館を出て、まっすぐ現場付近に行ったとみていいのではないでしょうか」 「そして、現場で、Nは隠し持っていたナイフを取り出して被害者を刺し、放置して逃げたという筋書きになるのかな」 「だと思います」  千葉刑事は自分の担当範囲の報告を済ませると着席し、ハンドタオルを取り出して顔を拭いた。会議室にしばらく沈黙が流れた。それぞれの捜査官が、原田とNの行動を追体験しているのだろう。  やがて署長が軽く咳ばらいをしてから言った。 「次は、現場付近の捜索と、車の中だが」  署長に目で促されて鑑識係長が立ち上がった。 「現場周囲の山林、及び放置された車内には、凶器着衣その他これと言った遺留品は現在までのところ発見されておりません」  係長は言葉を切った。一同はまだ続きがあるものと思って、その口元を見つめている。しばらくしてたまりかねたように署長が言った。 「それで終わりですか。−−ええと、指紋のほうは?」 「はっ。指紋については、既に初日に判明したように、助手席周辺は作為的に拭き取られております。助手席側のドアの取っ手も拭かれていることから、犯人は助手席を開けて逃亡したと推定されます。……ええと、その他の部位の指紋は、なにしろレンタカーですので多岐にわたり、現在分類中です」 「ハンドルはいかがでした」と千葉は口を出した。係長が細い目を千葉に向ける。 「ハンドルおよびレバーから検出された指紋はほとんどが被害者の物でした。ただ、クラクションには明らかに違う物がついてましたが、繰り返すように、なにしろレンタカーですので誰の物とも断定できかねると思います」  千葉は鑑識の言葉に引っ掛かるものを感じた。 「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ」と千葉は確かめるように言った。「クラクションに違う指紋が検出されたとおっしゃいましたね」 「ああ、しかしそれが誰の物かは特定できないと言いたいんだ」 「しかし、仙台の繁華街を抜けて高速に入り、インターから国道に入って細倉まで、この間一度もクラクションを鳴らさないというのも不自然じゃないですか」 「そうでもねえだろ、クラクションは癖みたいなもんで、鳴らす奴は引っ切りなしに鳴らすけど、おれなんか普通一日に一度も鳴らさねえな」 「それはそう言う方もおられるでしょうが……わたし今思い付いたんですけどね、ここに二人連れが車に乗っていて、一人は東京から来たばかり、一人は地元出身だとしたらどっちが運転するのが自然でしょうかね」 「千葉さんの言いたいことは分かった」と警部補が口を出した。「つまり、少なくとも細倉までは、容疑者Nがハンドルを握っていたと言う訳だな。となると、クラクションの指紋は当然Nの物である確率が高い」 「それならなんで被害者は運転席にいたんだ。それにハンドルの指紋も被害者の物が卓越しているじゃねえか」 「わたしの推測ですが、Nという男はなかなか悪知恵に長けた奴で、鉱山資料館まで案内してきたところで、疲れたからなんて言って言葉巧みに運転を被害者と交代したのだと思います。それは勿論ハンドルやシフトレバーの指紋を被害者の物で埋めてしまうつもりだった。しかし、クラクションは見落とした。盆休みも終わりでマインパークもがら空きだし、資料館から現場までは渋滞もなかったので被害者は鳴らさずじまいで運転して現場に着いたんでしょう。そして、Nは被害者を殺害して助手席その他自分が触った所を拭き取る。運転席側のドアハンドルやライターなどは、たぶん資料館には入らないで車に残っていたときに拭き取っておいた。だから一緒に入館しなかったのです」 「そんな手の込んだことをするより、殺害後にハンドルも含めて全面を掃除した方が早いだろう」 「いや、それでは明らかに同乗者が殺害したことになってしまいます。犯人の意図は、できれば物取りか行きずりの通り魔殺人に見せかけたかったに違いない。おそらくそのためにも、以前不審死体の発見された廃坑に続く道端を現場に選んだのだと思います。ここでまた犯人は手抜かりを犯しているのですが、他の車でも通り掛かったせいか、あわてて逃亡したのだと思われます。−−つまり落ち着いていれば、物取りにやられたと見せかけるために被害者の札入れを盗むとか、我々が同乗者がいたと断定した手掛かり、つまり手帳のスケジュールを持ち去るとか、もっと工作を完全にすることもできた筈です」  千葉の意見は説得性があった。というより、手掛かりが少なく、他の者は自分の意見を持つに至っていない状態だった。署長は全員が先入観を持ってしまうのを避けるように、千葉の意見には触れずに議題を変えた。 「つぎは、犯人の逃走経路について、捜査状況を報告して貰おうかな」  それを受けて、捜査係長が立ち上がった。 「ええ、他の車のタイヤ痕などが現場付近に見当たらないことから、犯人は現場から徒歩で逃走したものと仮定しておりましたが、県道に出てもバス停まではかなりあるし、タクシーなんぞは滅多に通らねえし、車を使った可能性も捨て切れません。徒歩、あるいはバスを使った場合は、最終的には栗原電鉄に乗ったと考えられますが、細倉から栗駒までの各駅とも挙動不審の人物は目撃されておりません。−−ま、千葉刑事のいうNという男の人相がもう少しはっきりすれば聞き込みの仕様もあるんだけどね」  千葉は署長に許可を得るように目礼して立ち上がり、コピーした紙を取り出した。 「ここに、二人の目撃者の話を総合して、Nと思われる男の特徴をまとめましたのでちょっと配ってください」  紙の束が出席者を一周し、余りが千葉に帰って来た。 「これはもっとプリントして各駐在所には配布するつもりですが」と言って千葉は署長を見た。「マスコミにも流して公開捜査までやった方がいいでしょうか」 「それはちょっと現段階では時機尚早だな」と署長は不機嫌そうに言った。「まだわれわれは手詰まりに陥ったわけじゃない。千葉刑事の人相書に該当する人物を洗い出して、それでも目撃者が現れなかったら公開するという段取りにしよう」  しかし時間が経てば人の記憶は薄れると言いかけて、千葉は口を噤んだ。署長には一本負い目がある。署長は東京に出張して手ぶらで帰って来た千葉を、ねぎらいこそすれ、咎めはしなかった。それだけに千葉の気質としては、署長に頭が上がらない。  千葉は黙って着席した。署長が頷いて説明を加えた。 「千葉刑事の調べで分かったように、犯人と目される男は地元の出身で土地カンもあると思う。わざわざあの現場を選んだというのも何か理由がありそうだ。したがって、挙動不審の者を捜しても当たらないんじゃないか。むしろ平然として堂々と逃亡したような気がするな。庄子警部補、どう思う」  県警から来ている庄子警部補は、同感と言うように頷いた。 「わたしも、これは綿密な時間割にのっとった計画的殺人という意見に賛成です。ただ、地元出身と言ってるからには、今は仙台なり東京なり大都会に住んでるわけだから、無事逃げ帰ってるとしたら洗い出すのは並大抵のことじゃ難しいでしょう」 「ちょっと、いいですか」と千葉が遮るように発言した。「わたしにハイテク・リサーチをやらして貰えませんか」  全員が千葉を注視した。あえて火中の栗を拾う馬鹿がいるといった冷たい視線から、おいしいところを取るつもりかといった不機嫌そうなまなざしまで感じられた。千葉は臆せずに言葉を続けた。 「実は私、この四月にも一度ハイテク・リサーチの名前に出くわしたことがありまして、因縁というわけじゃないんですけど、どうしても自分の手でやってみたいと思います」 「まあ、構わないんじゃないの」と直属の上司である刑事課長が言った。「被害者の足取りはだいたい分かったし、N氏を直接追うばかりが能じゃない。被害者が誰にどんな恨みを買ってたか、それも含めて千葉君とこにやって貰おうか。−−それでいいですか、署長」 「そうだな」と署長は値踏みするように千葉を見た。「課長に異存が無いなら」  千葉は誰にともなく頭を下げた。千葉にはこの道が最短距離だという確信めいたものがあった。      10  日本中の話題をSIVが席巻するのには一日で事足りた。  もちろん率先して過剰に反応してくれたのは若者達で、何を勘違いしたか秋葉原のある店の前には九月一日の開店前に三〇人ほどの列ができて、シャッターが開くと同時に、早く『シーブイ』を売れと、面食らう店長に詰め寄ったという。翌日になるともはやその手の話題には事欠かず、センテックスの電話は各営業所とも問い合わせのためパンク状態となり、急遽専用回線をつけてテレホンサービスを流したり、テレビCMのスポットを増やしたり、その対応に追われた。  ハイテク・リサーチにしても事情は同様で、ソフトウェア供給代理店と新聞広告の片隅に名前を出したばかりに、問い合わせお願い売り込み脅迫の電話が後を立たず、氏家真美はほかの部署に頭を下げて回る羽目に陥った。 「もう、第一期ラインナップについてはここにちゃんと印刷してあるのに読めないのかしら」真美は井上はるみを相手に新聞を叩きながら愚痴った。「発売予定日も予約方法もちゃんと書いてあるじゃないの」 「なんだか正体はよく分からないけど、とっても面白そうだというのが受けてるみたいですね」 「それはまあ、ブーミングの常套手段ではあるんだけど、ちょっと異常ね。みんな退屈してるんだわ」 「CDやウォークマンもあって、ビデオもあって、BSもあって、テレビゲームもあって、このうえまだ遊ぶものが欲しいのかしらって思っちゃいますね」 「あんた、ずいぶんストイックになったのね。病気じゃない」 「はい、実は恋の病なんです」と、はるみは涼しい顔で言った。「そういえば、原田さんに恋人がいたという噂、ご存じですか」 「いいえ、男性社員の私生活は覗かないようにしてるから。でも、お気の毒ね、その方。……わたし、お気持ちよく分かるわ」 「でも、ちっともめげてなかったそうですよ。氏家さんもご存じじゃないかしら、ハイテク・リサーチに登録している派遣社員で、センテックスの本社にしばらく行っていただいていた、山中百合さん」  真美は思わず、声にならない声を出した。その女性のことなら原田に聞いたことがあった。センテックスにおける原田の情報源のはずだ。しかし、恋人と呼べるほどの関係にまで発展していたとは知らなかった。 「ふうん、そうだったの」と真美は感心した。「彼氏、オカマっぽくしてたのは隠れ蓑だったのね。この年齢でもまだ勉強することはあるもんだわね」 「それで、その山中さんが昨日ここに現れて、原田さんにお金を貸していたから、預金通帳があったら差し押さえたいと言って勝手に机の引き出しを掻き回して行ったんですって」 「ええっ」真美はさすがに驚いた。原田の机はまだそのまま調査部に置いてある。自分の家に土足で上がられたような不快感に表情が険しくなった。 「そんなの、誰も止めなかったの」 「あいにく、わたしも氏家さんもセンテックスに詰めてましたし、ほかのスタッフも電話に釘付けだったり、広告社に行ってたりして、隙だらけのところを奇襲されたと言うことです。それに、一応身内でしたし、何か理由があって整理してるんだろうと思って見てた人もいるみたいですね。でも、ほら、今年入った桜井さんが、顔を知らないものですから、大きな声で、何やってるんですかって問い詰めたんで、ばれちゃったそうです」 「怖い話ね。……それで、取られた物はないのかしら」 「ないと思いますが……ただ、警察が調べに来たとき、机の中が余り雑然としていると、痛くもないところを探られるかも知れませんよ」 「探らせときゃいいんだけど、こっちにはなんにも後ろ暗い所はないんだから。で、警察はいつ来るって言ってた」 「いずれお伺いしますと行って来たきり、まだ連絡がありません」 「そっちも奇襲で来るつもりかな。まあいいわ、わたしらは自分の仕事に専念しよう」 「氏家部長、ひとつお願いがあるんですが」はるみは居住まいを正して言った。 「おやおや、改まってどうしたの」 「わたしをセンテックスの調査に戻していただけませんか」  真美は髪をかきあげて、はるみの目を見た。それからおもむろに言った。 「まず、会社の立場から言うとね、もはやセンテックスを調査するメリットはないと思うの。特許関係の交渉は済んでるし、SIVのソフトを一括して請け負うことになったから、これ以上戦果をあげる必要はないと言っていいわ。何かまずいことを探り当てたりしたら、今度はこっちも一蓮托生になり兼ねないのよ」  はるみは黙って頭を下げて振り返ろうとした。 「待って」と真美は呼び止めた。「まだ話は済んでないわ。−−それでもね、SIVのブームだってそんなに長続きはしないと思う。それに他のメーカーも続々参入して来るし、センテックスだって次々と改良型を出さなくちゃならないでしょう。だからね、センテックスがどういうネクストを考えているか調査して、あちらが考えつかないようなら、むしろこっちからまたアイディアの売り込みをしなきゃいけないと思うの」 「過去はできるだけ目をつぶって、未来を見なさいってことですね」  真美は頷いた。 「分かってくれるかな、そう言う条件付きでお願いするわ」  はるみとしては否やはなかった。はい、としおらしく返事をすると、真美は続けて言った。 「それから、発売日までは忙しいから、そっちにかかりきりになるのはちょっと待ってね。一人、SIV担当要員を増やすから、その子にソフト関係は引き継いでくれる。そしたらすこし楽になるでしょ。−−それからSIVゲームの方の反応がいまいちのような気がする。ハニービーソフトからゲーム画面の絵を貰えないかしら。テレビに接続した写真しか撮れないでしょうけど、あとは言葉でカバーして、ファミコン雑誌の広告に載せてちょうだい。あと、『シーブイ』って言ってたわね、誰か」 「電機店の問い合わせにあったんです」 「シブい、じゃあんまりおしゃれじゃないわね。いっそのこと、SIVと書いて、シーヴィと読ませようか。CVと書くのも見た目はいいわね。コンパクト・ヴュワー、略してシーヴィ。CDからの連想で、一般受けするんじゃない。このへんひっくるめて、山田さんに頼んで商標登録して貰ってね」  真美は矢継ぎ早に指令を下すと椅子にもたれ掛かってこめかみを揉んだ。はるみは少し心配そうにその顔を見ていたが、やがて自席にとって返した。真美は机の引き出しを開けかけて、壁の時計を見る。まだ十一時、昼休みまでは我慢しよう、と真美は思った。いくら担当だからと言っても勤務時間中にSIVに耽溺していては示しがつかない。ちらりと部下たちの席に目を走らせる。その途端、はるみと視線があった。  宮城県警栗駒署から二人の刑事が聴取に現れたのは、その二日後の昼過ぎだった。原田の直属の上司だった氏家真美は多忙を極めており、時々座を外すことを余儀なくされるという理由で、同僚の井上はるみが同席した。 「原田さんの名刺には課長と印刷してありましたが、井上さんはその部下ではないのですか」  千葉と名乗った刑事が、不躾にはるみを見回しながら訊いた。真美がにこやかに答える。 「私共の会社では役員以外はノーポストですので、入社後一〇年たったら対外的には課長と肩書を付けますが、社内では横一線であることに替わりはございません」  千葉は、ははあなるほどと言ったが、腑におちない顔をしている。そんなもので統制が取れるはずがないと思っているのだろう。 「ま、それはいいとして、われわれは原田さんが計画的に殺害されたと断定するに足る根拠をつかんどるわけですが、残念ながら犯人を逮捕するに至っていないのが現状です」  千葉は女たちに言い聞かせるように話した。要するにたいしたことはつかんでいないわけね、と真美は思った。はるみが硬直した顔をしているのは笑い出すのをこらえているのかもしれない。しかし、ここで警官たちを挑発するのは賢明とは言えない。真美は神妙に頷いた。千葉は聴衆が感心しているのを確認して続けた。 「今回こちらに寄せていただいたのは、被害者生前の仕事内容、交遊範囲などをお聞きして、捜査に役立てたいと、こういうわけでして、もちろん秘密は厳守しますし、強制ではございませんが、よろしくご協力いただきたいと、かように思います」  千葉刑事と、連れの川島刑事はそろって頭を下げた。真美はあわてて言った。 「いえ、もちろん私共も喜んで協力させていただきますわ。どうぞお顔をお上げになって。大切な社員を失って口惜しいのは私共も同様ですの」  千葉は頷きながら目の前に置かれたオレンジジュースのグラスを手にとった。そのとき、応接ブースの外に女子社員が立って、真美に声を掛けた。 「申し訳ございません、氏家部長、お電話です」  真美は失礼と言って立ち上がった。「井上がすべて承知しておりますから」  真美が出て行くと自然、千葉とはるみが向き合う形となった。千葉は思わずまじまじと、はるみの顔を見つめた。 「どうなさいました」と、はるみが訊いた。 「直接お目にかかるのは初めてですな」と千葉は目をそらさずに言った。「しかし以前、仙台の事件でニュースに出てらしたのを覚えてますよ」  やっぱり、とはるみは思った。松沢のおばちゃんのところに現れたのもこの刑事に違いない。さもなくば、人の噂も七十五日、今に至るも四月のことを覚えているはずがない。 「さすがに刑事さんともなりますと、記憶がよろしいですのね」 「いやあ、そんなこともないんだけど、ほら、あんまり美人だったし、宮城県では大評判だったからね。そのうちタレントかモデルにスカウトされるんじゃないかってみんな言ってたくらいだよ」 「わたくしには、ハイテク・リサーチがございますので」と、はるみは受け流した。「ところで、お忙しいでしょうから、御用のほうを進めましょうか」 「いや、全くその通り。実は午前中に世田谷の原田さんのとこに行って、改めてお母さんの話を聞かせて貰ったんだけと、やっぱり心あたりってなかったみたいですね。ですから、われわれも、ここが最後の望みつうわけです。あ、煙草いいですか」  はるみは、なかなか本題に入ろうとしない千葉刑事にいらだちを感じ始めていた。それが恐らく、千葉の『手』なのだろうとは思ったが、巻き込まれて行く自分を制御できなかった。 「はいどうぞ、こちらにライターもございますので。−−それで、お調べはやはり、原田さんの仕事の具体的な内容まで必要なのでしょうか」 「そうですな」と千葉は煙を吐き出しながら言った。「どうも、被害者は、犯人と顔見知り以上の付き合いだったと推定されるネタが上がってましてね。それなら、つうこって被害者が仙台で会う可能性のあった人物をすべてリストアップして、一人ずつ当たって行くつもりです。それで原田さんのお宅でも故人宛の今年の年賀状を見せて戴きましたが、差出しに宮城県の住所は一枚もありませんでした。となると、やはり仕事上の付き合いだったと考えられますからな」 「デカ長、ちょっと」と川島刑事が小声で言った。「まだ捜査途上のことを洩らすのは如何なものでしょう」 「あっ、そうだな」と千葉はとぼけた。芝居としては拙劣だったが、それだけに相手は高を括ってしまいそうになる。事実はるみも、何でも教えてやれという気持ちになっていた。 「原田さんが仙台にたびたび出張していたのは、センテックスという会社を調査するためです。実は、今度我が社とセンテックスは業務提携を行うことになりまして、そのためには相手方の評判や信用度など、四季報や会社録の数字に現れないことを調べておく必要があったのです。言わば、縁談の身上調査のような物ですね」  はるみはさりげなく鎌をかけてみた。案の定、千葉の顔色がやや紅潮した。 「なるほど」と千葉は表情を変えずに言った。「センテックスなら、こっちじゃ一流だ。−−そうしますと、仙台ではセンテックスの方に会ってたわけかな」 「さあ、それはどうでしょうか。縁談調査はあくまでも相手本人には秘密に行うものでしょう。近所の方や、銀行、下請け、取引先などに聞き込みはするでしょうが、わたしだったらセンテックスの門をくぐって、あなたの家柄を教えて下さいとは言えませんわね」 「ですが、この場合は縁談とは違うから」千葉は強引に話の方向をそらした。「一応、センテックスのほうにも聞き込みをしたいと思いますので、どなたか、責任者のお名前を教えていただけませんか。いや、もちろんセンテックスさんを疑うとか、そんなつもりはないですし、できるだけこちらの名前も出さんようにするつもりです」  はるみは、すこし迷った。余人であればためらいなくその名を告げただろうが、中村の場合はやや事情が異なる。 「上司の判断を仰ぎますので、少々お待ちいただけますか」  はるみは軽く頭を下げて、真美を捜しに出た。その姿が見えなくなると、二人の刑事はふうっとソファにもたれかかった。 「いやあ、美人だなあ」と川島刑事は首を振りながら言った。「ちょっと攫って土産にしますわ」 「やめとけ」と千葉はぶすっとした声で言った。「薔薇には刺があるって言うだろ」 「あの子は刺なんかないっすよ。腕力はあるかもしれないけど」 「おれは女のでしゃばるのは好きになれねえな。嫁さん貰うなら、東京の娘はやめとけよ。とくにキャリアウーマンなんか栗駒とか鴬沢に来てどうすんのだ」 「センテックスにでも勤めて貰いますわ。古川だかに新しい工場作るらしいですよ」 「へえ、ほんとか、儲かってんだなあ。だけど悪いことをして太ってるつうこともあるかんな」 「そうそう、そのネタを掴まれて、口封じにばっさりというわけでしょ。だけど、あの会社は地元のホープだからそれはどうですかね」  ふたりがお喋りをしていると、はるみが戻って来た。 「警察の方には、包み隠さず話すようにとの事でした」はるみは、腰をおろすと、自分の意志ではないというように淡々と話し始めた。「センテックスの仙台の責任者は支社長様と言うことになるのでしょうが、私共も数えるほどしかお目にかかったことがございません。実質的な交渉相手は、開発部長をなさっておられる、中村様です」 「中村さんですね」と千葉が確認するように言った。はるみが、そのとおりですと頷く。千葉は手帳にNと書いて、ちらりと川島に見せた。 「調査の内容はどのようなものでしょう」と川島が訊いた。  はるみはその質問を予期していたように、ホッチキスで止められたA4の書類を差し出した。 「ここに原田さんが今までにセンテックスについて報告された事項をまとめたものがございます。これは部内会議用に作成したものですので、取捨選択はいっさい加えておりません」 「どれ、拝見」と言って千葉は受け取った。横から川島が覗き込む。千葉は見やすいようにやや身を引いた。 「ははあ、ほら、古川工場新設も書いてありますでしょう」と川島が嬉しそうに言った。「これによると、SIVラインと考えられる、となってるな。SIVって何かの機械ですか」  はるみは千葉を見たが、彼も戸惑ったような表情をしている。まだSIVを知らない日本人が一度に二人も出現して、はるみは情けなくなった。 「SIVは、十一月発売予定の画期的新製品で、今月一日から宣伝キャンペーンを繰り広げています。我が社でもこの装置のソフトを担当することになり、そのために原田さんがセンテックスを調査しておりました」 「ははあ、それでこの報告はSIVがしょっちゅう出てくるのか」と川島がようやく納得したように言った。それから刑事たちはしばらく黙って書類に没頭し、地名や人名が出てくると何事か小声で囁きあった。  しばらくして千葉が顔をあげた。「故人の仕事内容としては、これだけですか」 「そうですね、少なくともセンテックス関係で報告されたものは、これで全てです。それ以前の物や、未整理の物となると、机やロッカーを改めませんと」 「お手数とは思いますが、できれば見せていただきたいですな」千葉は当然のような口調で言った。「もちろん令状もないし、強制はできませんから、あくまでも自発的にご協力いただくということで」  はるみは次第にうんざりしてきたが、二人を放り出して逃げるわけにもいかない。どうぞこちらへと言って、刑事たちを原田の机に案内した。幸い調査部の社員は外回りに出て、人影の少ない時間帯だった。  刑事たちは無遠慮に引き出しを抜き取り、慣れた手付きで丹念に中を捜索し始めた。そして、アドレスや名刺ホルダーなど手掛かりになりそうなものを取りのけては、山に積み上げて行った。一番下の段にはファイルが並んでいたが、それらもいちいち取り出しては内容を確かめていた。はるみは所在なさそうにその様子を眺めていたが、ふと、取り出された引き出しの端にガムテープが覗いているのを見付け、手を伸ばした。その引き出しを持ち上げて見ると、裏側にクラフトの定形封筒が貼り付けられていた。刑事たちが捜索の手を止めた。 「ちょっと、貸してみい」と有無を言わせぬ口調で千葉が言った。  はるみは、引き出しを裏返して千葉に手渡す。千葉は机のうえにそれを置くと、慎重な手付きでテープを剥がした。封筒の口は糊付けされていなかった。千葉が机の上で封筒を逆さにすると、中から直径八センチの円盤型のPETフィルムが十枚ほどもばらばらと滑り落ちて来た。はるみは思わず息を呑んだ。千葉は問いかけるように、はるみの顔を見た。      11  山里のありがたいことは、残暑がだらだらと尾を引かないことである。九月と言うのに一千万の人間どもの体温で蒸し上げられる東京から戻ると、窓から見える栗駒山には秋の気配さえ感じられる。千葉は、四月の出張のときとは違い、確かな手応えを掴んで帰って来ることができたことに内心ほっとしていた。  千葉と川島は署長の登庁を待って復命のため出頭した。署長は千葉の表情を見て、長くなりそうだと判断し、ソファの方に二人を導いた。千葉は、原田の家での捜索から始めて、ハイテク・リサーチに於ける捜索の顛末まで、メモと証拠品により再現して見せた。千葉の話が終わると、署長は煙草に火を点けて、窓の外を見た。釣られたように千葉と川島もがさがさと潰れかけた煙草を取り出した。 「センテックスか」と署長が言った。「おれの伜も行ってるわ」  千葉と川島は顔を見合わせた。署長の息子が東京の大学を出て、地元にUターンしたのは知っているし、年始のおりなど顔も会わせたはずだが、就職先までは聞いていなかった。 「勤務先は仙台支社だが、親に似てできが悪いから開発部じゃねえ、事務屋の方らしい。だけど部長の名前や経歴くらいは分かるだろうな。聞いてやろうか」 「いや、それには及びません」と千葉はあわてて言った。「息子さんにご迷惑がかかるようなことはしたくないですし、それにまだ何の証拠も上がってませんから……」 「下手に嗅ぎ回って警戒されたら元も子もないってことだな。いや、いい。分かってるよ。だけど、どうなの、デカ長さんのカンもやっぱりNは中村だと言ってんじゃないのか」  千葉は苦笑して言った。 「そうですな、カンだけじゃなくて、特にこのSIVディスクが出てきてからは臭いもきつくなって来ました。あ、指紋をまだ取ってませんから袋から出さないで下さい」 「ふーん、これがSIVディスクか」署長はポリ袋に入ったフィルムディスクをためつすがめつ眺めた。 「署長、SIVをご存じなんですか」と川島が驚いたように言った。「そりゃ知ってるさ、新聞でもテレビでも広告してるだろう」 「……だけど、本物を見たことはないでしょう。わたしら、見せて貰いましたよ」 「ハイテク・リサーチに試作品が一台と、発売キャンペーン用の封も切ってないのが一梱包ありまして、試作品のほうを試しにちょっとやったんですがね、いや大したもんでした」  千葉もそれに続けて言うと、署長は羨ましそうな表情を見せた。 「それで、このディスクは何だった。映画かな」 「いや、これはまだ指紋を取ってないんで掛けてません。あとからハイテク・リサーチがSIVを一台送ってくれることになってますから、そしたら見てみましょう。−−それで問題は、どうしてこれが故人の机に隠してあったかです」 「ハイテク・リサーチがキャンペーンを請け負ったんなら、試供品があっても不思議じゃないだろう」 「いや、ところがですね、九月一日の発表までは、秘密を守るためにハイテク・リサーチにも試作品は一台しか置いてなかったし、付属のディスク三枚もすべて所定の位置に保管してありました」 「と言うことは、こいつは別ルートで手に入れたってことか」署長にも千葉の言いたいことが分かった。「しかも、隠していた状況から見ると非合法である可能性が強い。センテックスから盗み出したか−−」  千葉は頷きながら後を引き取った。「内部の者を手なずけて盗ませたか。そして、その相手がNだとすれば、盗みがばれるのを恐れて原田を殺したということも考えられます」 「そうだな……。ところで、レコーダーはあったのか」 「いや、それは−−」 「レコーダーがなきゃただのフィルムだ。持ってても仕方あんめい。会社にも、自宅にもなかったのか」  署長の声はやや厳しくなった。千葉は、言い訳に聞こえないように冷静に答える。 「その点は我々も気がついておりました。しかし、会社の机の中はもちろん、ロッカーにも見当たらず、ハイテク・リサーチからもう一度被害者の自宅に戻って押し入れの中まで見せて貰いましたが、発見できませんでした」  署長はしばし考えこんだ。レコーダーを持たずにフィルムディスクだけを隠し持っていたというのはどうしても納得できない。千葉たちの捜索が不十分なのだろうか。しかし現段階では、被害者宅の天井裏から床下まで捜索させる根拠は乏しかった。とりあえずは中村の線から、センテックスを追ってみようかと署長は考えて、ふと思い出したことを口にした。 「そう言えば、あれもセンテックスとハイテク・リサーチがからんでいたなあ、ほら、四月にあった仙台の通り魔殺人」  千葉刑事は思わずあっと声を出した。あの事件では、テレビニュースで見た井上はるみの印象が強すぎて、加害者がセンテックスの社員だったことをすっかり失念していた。千葉は顔が赤くなるのを感じた。昨日今日の駆け出しでもあるまいし、おのれの迂闊さに歯軋りする思いだった。東京でそれを思い出していれば、もっと突っ込んだ質問を氏家や井上に浴びせることができた筈だった。 「ええ、その通りです」と川島が平然として口を出した。千葉は驚いてその顔を見る。川島はそれに気付かずに続けた。 「あの事件では、加害者がセンテックスの社員で、取り押さえたのがハイテク・リサーチの井上さんだというのは知ってました。いや、それにしても井上さんは美人でしたね、部長」 「あのな、川島君」と署長がたまりかねたように言った。「あの事件についてはまだけりがついてない。県警の中では、センテックスの社員たちがシャブに汚染されてるんでねえかって強制捜査を主張する者もいるくらいだ。もしもだよ、原田がその証拠でも掴んだとしたらどうだ。センテックスの幹部にしてみれば脅威じゃねえか」 「いやまさか、あんな清潔そうな会社に限って−−」  川島が言いかけるのを署長は激しい言葉で遮った。 「川島、刑事が先入観を持ってどうするんだ。おれは伜がセンテックスに行ってるからって、手加減するつもりはねえぞ。デカ長、少しセンテックスを洗ってみろ。県警か宮城野署の協力がいるなら、おれが話をつけてやる」  千葉と川島はその見幕に思わず立ち上がっていた。  氏家真美と井上はるみは下北沢駅前の小さなレストランで向かい合っていた。急激に膨れ上がった副都心よりも、このあたりのほうが古くからやっていて、安くて、おいしい店があるというのが真美の持論だった。現にこの店も真美が学生時代に見付け、再び東京に住むようになってまだやっているのを見たときは、初恋の人に再会したような感激を覚えたものだ。  一人暮らしの女が二人、食事時に顔を会わせるのだから、どちらかの家に行けばよさそうなものだが、そういうことは一年に数えるほどしかない。それも、はるみが真美のところに呼び付けられるというのが普通で、真美がはるみの家に来たことは一度しかなかった。それはお互いのプライバシーを尊重するというより、慰め合いを潔しとしない真美の性格によるのかもしれない。  二人は、今日のおすすめ『鮭の冷製』と『チキンのチーズグリル』と言う料理をぱくつきながら、ちょっと国籍不明だけどおいしいとか、これで九八〇円なら許しちゃうとか、お店はださいからデートコースには向かないねとか、SIVで料理番組をやったら見るだけで食べたつもりになるからダイエットに最適とか当たり障りのないことを喋り合った。最後に泡立つコーヒーが出されると、さてと言って真美は本題に入った。 「はるみはどう思う、原田君のディスク」 「参っちゃいましたね、刑事の前でぽろり出てくるんだもの。−−でも、出所と言ったら、やっぱりセンテックス仙台でしょう」 「わたしね、一瞬、あれポルノじゃないかと思ったのよ、あの隠し場所聞いたとき。内容見てみればよかった」と、真美は別のことを言った。「警察に持ってかれちゃしょうがないけどね。センテックスは映画やゲームと言ったお子様路線はこっちに任せて、アダルトを自前でやるつもりかしら」  はるみは商売のことから頭が離れない真美をからかうように言った。 「そうかもしれないですね。主演男優、中村部長で」 「あら、わたしは共演してないわよ」と真美は平然と言った。「まあ、そこまでやってないとしても、原田君には後ろ暗い所があったのよね。わたし、まだまだ人を見る目がないんだわ」 「ひとつ気になることがあるんですけど」はるみはコーヒーを一口飲んで言った。「ほら、原田さんの自称恋人の山中さんが、机を荒らしに現れたでしょう。あれ、ディスクを捜しにきたんじゃないのかなって」 「と言うことは、原田の奴はぺらぺらと調査中のことを女に喋り散らしてたってわけ?」 「それだけじゃなくて、ディスクを隠してたって事は、どこかにプレーヤーも隠していると考えられますよね。警察はもう一度自宅を当たって見ると言ってたけど、なにも言って来ないところをみるとたぶん見付けられなかったんでしょう」 「あっ、まさか……」真美は自分がすっと蒼ざめるのを感じた。「原田君、SIVを盗み出して、百合さんに預けてたんじゃないでしょうね。どうしよう、中村さんにばれたら、わたしの信用問題だわ」 「たぶん中村さんは、事情をよくご存じでしょう」  真美は訝しげにはるみを見た。 「どういうことなのかしら。つまり中村さんはわたしよりも原田君を評価したって事なの。それでSIVをモニターさせたってわけかしら」  好きな男がからむと氏家真美にしても女の目は曇るのかしらと、はるみは思った。おそらく中村は自分から進んでSIVを差し出したのではあるまい。もしそうなら、それを真美に黙っているほど度量の小さい男ではない。 「わたしの考えですが」と、はるみは前置きしてから言った。「原田さんは調査していて何かを掴んだんだと思います。そして、それを公表しないこと、氏家さんに報告しないことを条件にSIVとディスクを受け取ったんじゃないでしょうか。……そして多分、警察もその線で動き出すと思います」 「警察が出てくると言うと、原田君が殺された理由がそこにあるってこと。そしたら、中村さんが容疑者になるの。そんな馬鹿なことって、ありなの」 「悪いほうを考えればそうなると思います。わたしも以前容疑者に仕立てられそうになったことがありましたから、警察が一度思い込んだときの力は知っていますけど、それを覆すのは大変です」 「でも、中村さんに限って、やってないわよ」 「それなら氏家さんからご本人に警告しておいて下さい。そのうち警察が行くだろうが、アリバイとか用意しておくようにって」 「はるみ、ずいぶん冷たい言い方をするのね」と真美は不服そうに言った。「ここ、割り勘にするよ」 「おおっとタンマ」はるみは右手を挙げた。「お代官様、わたくしめに二つほど考えが」 「返答次第では許してやろう、小娘」 「まず急ぐのは、冗談抜きで中村さんと談合しておくことです。いったいどういう状況で原田さんにSIVが渡ることになったのか警察に説明がつくようにしておかなくちゃ。もしそれがなにかの犯罪絡みだったとしても、殺人罪を逃れるためだったらできるだけ本当のことを言うようにした方が良いと思います」 「そのために中村さんがまずい立場になっても?」 「黙っていてもそのうちものすごくまずい立場に立たされますよ。中村さんが逃げたら、お次はセンテックス全体が疑惑の対象になってしまいます」 「よくそういうつっぱねた言い方ができるわね。ま、いいでしょ、あいつも男なんだからそのくらいの責任は取ってもらお」 「それからもうひとつは、まだ警察が気付いていない関係人物をわたしたちで調査するんです」 「山中百合さんね。SIVはやはり彼女が持っているのかしら」 「わたしはそうだと思います。そしてディスクが原田さんの机にあることを知っていたとしたら、それを手に入れたいきさつも原田さんから聞いているんじゃないでしょうか。だって、彼女はセンテックスの本社に派遣されてたんでしょう。そしたら社外極秘の機械を原田さんが持っているのを見て、黙っているわけはないと思います」  真美はコーヒーを飲み干して、目を閉じ、眉間を軽く揉んだ。はるみはその様子を見てなにか言いかけたが、目を開いた真美と視線が合って言葉は宙に浮いた。 「こうしよう」と真美は言った。「わたしは今のところ東京を離れられないし、中村さんにはなかなかドライに言えないから、仙台にははるみに行って貰えるかな。あしたの昼休みに抜け出して一緒に食事でもするように説得しておくから、はるみは十一時ころ仙台に着くように出掛けて、駅からでもセンテックスに電話を掛けてみて」 「はい。でも会ってくれるかしら」 「会わなきゃ懲役十五年って脅かしてやるわよ。−−それから、わたしは山中さんと少しお話しをしてみるわ。こうなると、原田さんの机を荒らしまくってくれたのはいい口実になるわね。原田さんが保管していた重要なファイルがなくなったことにして、あんたが取ったんじゃないのって締め上げてやるの」 「氏家さん、怒ってますね」 「やり場のない怒りだわね」 「だからと言って、SIVに逃避しないで下さいね」  はるみは真顔で言った。言ってから、怒るかなと思って真美の顔を見たが、真美は黙ってまた眉間を揉んでいた。      12  中村康夫はソフト・プロジェクト室で、作業服の胸に『根本』とネームプレートを付けた若い技術者から、一枚のディスクを受け取った。SIVにそれをセットして眼鏡タイプのフェイスセットを掛ける。プレイボタンを押すと、途端に目の前に兵士たちの戦闘シーンがはじけ散った。 「編集に二日ほどかかりましたので、ご覧になっているのは先おとといのニュースです」  根本の声が隣の部屋からのもののように聞こえる。中村は小さく頷いた。その程度では視線は外れない。上目使いに、傍らに立っている根本を見ると、映像はポーズ状態で停止した。彼は上司に褒められるものと決め込んで、嬉しそうににこにこしている。 「内容はまあまあだな」と中村は言った。「だけど、キャスターの顔やら挨拶やら無駄口を単にカットしただけではちょっとまとまらないな。最初に目次を出した方がいいんじゃないか」 「まばたき三連打か、スキップボタンでページめくりができますが」  中村はすなおにぱちぱちとまばたきをする。たちまち画面が変わってプロ野球のダイジェストを始めた。清原が逆転のスリーランを打った所で、中村は視線を外してポーズする。プレイバックボタンを押し、スタンドに入ったボールが飛び出して来てバットに当たり、野茂の開いた指の間に吸い込まれるまで見てから言った。 「ああ、フォークが落ち切らなかったな」  根本はにやにやしている。SIVを掛けている連中の独り言には慣れっこになっていた。中村はフェイスセットを外して彼に言った。 「目次設置を試みること以外に、むやみにズームアップをしないこと、立体感の不足、それから編集時間の短縮、これらがまだ解決していないな。夕刊紙を作ることを想定したら二時間で印刷まで持って行かなくちゃならん」  根本は予想外の厳しい指摘に鼻白んだように言った。 「ですが、既製のテレビニュースを使用して作成する以上限界があります」 「と言ってもエロ記事とギャンブルだけで紙面を埋めるわけにはいかねえだろ。ネットワークから映像の提供だけを受けて、同時進行で編集できるシステムを考えてくれ。テレビ屋と張り合えるようになったらいずれ自前の撮影班も作ってやる。ステレオカメラを持たせてな」  中村はソフト・プロジェクト室を出て、工場長席の隣にしつらえた仮の自席に戻った。本来の開発部は、西公園に程近い仙台支社屋の中にある。現在中村がこの宮城野工場に間借りしているのは、SIVの生産とソフトの開発、次世代製品の開発まで面倒を見てやらなければならないためだった。古川工場の拡充整備が完了すれば、開発部もあげて引っ越しすることになっている。  中村は工場長が席を外しているのをよいことに、彼の机のうえを覗き込んだ。SIVの生産状況と検査成績が広げっぱなしになっている。数字を見る限りでは生産は軌道に乗ったと言っていい。十一月一日までに五万台のストックという線は十分可能だろう。中村は開発部の主力を当面ソフト開発に注ぐことにしていた。  映画とゲームについては最初から外注のつもりだった。センテックスの人員から言って、今年度はハード供給で手一杯になるのは目に見えていた。ソフトの代理店としてハイテク・リサーチが独占するに至ったのは氏家真美の手腕もあるだろうが、中村にしてみればそれも筋書きどおり、どうせよそに出すなら真美にやってもらう腹だった。  しかし、新聞とテレビは自分の手でやる。娯楽ではない本物の情報を制する者は、世界を制すると言っても過言ではない。それは中村の信念でもあった。真美はどう出るだろうか、と中村は思った。あいつのことだから、当然新聞もやるつもりだろう。それはそれで構わない。あちらは女性セブンをやったらいい、朝日毎日はおれが取る。中村は古川工場の計画図を思い浮かべた。その一角にある情報センターと記された広い領域は、文字どおり日本の新しい情報の中心地となるはずだった。そして、いざとなったらそこだけをセンテックスから切り離し、独立させる。それはまだ真美にさえ明かしていない、中村の私案だった。  そのとき中村の席の電話が鳴った。 「おおや、真美ちゃんお久しぶり」受話器を取った中村は、皆が現場に出払っているのをいいことに頓狂な声を出した。あちらは会社から掛けているとみえて、生真面目な口調を崩さない。 「順調順調、問題ないね。今日からはもうフル稼働、人さえ確保できれば、来週には二交替で製造すっから。−−え、警察? 来てないよ、なんでだい」  ドアが開いて、工場長がラインの視察から戻って来た。中村はがらりと態度を変えた。 「はい、午後からは古川工場の方に行く予定ですが、そう言うことなら車はやめて新幹線で行きましょう。それなら駅で時間が取れます。十一時頃ですね。ええ、連絡を待ってます」  中村は電話を切った。 「デートかい」と工場長が言った。 「はは、そんなようなもんだ。雑誌の取材ですよ」  工場長は、露骨に羨ましそうな表情を見せた。工場を取材見学したいという申し込みは、SIVの発表以来急増している。それをすべて機密保持を理由に断っているだけに、工場長は個人プレーが面白くなかった。 「ま、わたしはあれこれ言える立場じゃないけど、ほどほどにしといたほうが上のほうの覚えもいいと思うよ」  中村はそれを聞いて、磊落そうに笑って見せた。それが工場長を苛立たせることは知っていたが、この男に好かれる必要性はなかった。  井上はるみは打ち合わせどおり、仙台駅構内にある、『こばやし』の弁当売り場をぶらぶらしていた。中村は、よっと言って片手を挙げながら近寄った。 「ほかに待ち合わせ場所思い付かなかったんですか」と、はるみは言った。「ほら、おばちゃんが冷やかしお断りって顔で見てる」 「いやあ、こういうとこなら暇潰しになるし君の趣味に合うかと思ってね。どう、この政宗弁当は。豪華絢爛」 「コストパフォーマンスから言えばこっちの若とり弁当のほうが上ですね。だけど、今日は駅弁のウィンドショッピングをしに来たんじゃありません」 「氏家さんにちらりと聞いたよ。まあ、ちょっとその辺に入ろう」  二人はJR東日本直営のコーヒーショップに入り、冷たいものを注文した。飲み物が運ばれて来る前に、中村が釘をさすように言った。 「原田くんの事はご愁傷様でした。しかし、ぼくは手を下していないとしか言いようがない」 「それを伺って安心しました」と、はるみは言った。「でも、それを判断するのは個人ではなく警察です。それをお忘れなく」  中村は不審そうにはるみの顔を見た。 「君、見かけによらずよっぽど暗い過去があるんじゃない」  かちゃかちゃと音をたてて飲み物が置かれた。はるみはストローの袋を破り、さっそく一口飲んでから言った。 「お聞きしたいことは山ほどあるんです。午後から古川にお出でだそうですね。お帰りは何時くらいでしょう」 「七時か八時くらいまでかかるかもしれない。新設ラインの据え付けがひとつあってね。図面どおりぴったり行けば早いと思うが」 「わたし、今日は仙台に泊まります。話が終わらなかったら、夜も時間を割いてください」 「まあ、それは話をしてから考えよう。ご質問をどうぞ」 「ひとつは、どうしてSIVが原田さんの手元にあったかということです」  やっぱりそこから来たかと中村は思った。いずれ警察も同じところを突いてくるだろう。とするとこれは恰好の練習台になる。 「あれは、あんまり原田君がうるさくせがむもので、モニター委嘱と言う形で貸与しました。彼自筆の契約書も開発部のファイルに入ってますよ」 「原田さんがセンテックスを調査しているのは極秘だったはずですが」 「それは君らの都合さ。彼は悪びれずにぼくに面会を求めて、こんどセンテックスを調査することになったのでよろしく、ついては報告書に手加減が欲しいのなら、SIVをモニターさせてくれと、こう言ったものさ」  はるみは、その返答に呆れて言った。 「それで……お貸ししたわけですか」 「うん、今考えると少し軽率だったかもしれないが、ほら、社員が事件を起こした直後でしょう、妙な噂を流されるよりはと思ってね」  何か隠しているなと、はるみは思った。しかしそれを追及するほどの根拠はない。いずれにせよ、SIVの本体も原田の手に渡っていることが確認できただけでも一歩前進だった。はるみは少し考えてから言った。 「おとといの午後、栗駒署の刑事さんがハイテク・リサーチに見えられまして、原田さんの机を捜索したらディスクが出て来たんです。原田さんがセンテックスを調査していたこともお話ししましたし、中村さんの所に事情聴取に来るのは時間の問題です」  中村は分かったというように頷く。はるみは言葉を続けた。 「新聞記事によれば、原田さんの死亡推定時刻は八月十六日、午後三時頃となっていますが、警察にアリバイを聞かれてお答えできますか」 「ぼくは、容疑者なのか」と中村は意外そうに言った。「新聞では強盗殺人と書いてなかったっけ。ぼくはまだそれほど食い詰めてないよ」 「それは最初のころの解釈でしょう。翌日の『河北』では、取られたものはなく計画殺人と断定と書いてありました」 「君、河北新報なんか読んでんの」  はるみは細倉の廃坑で死体が発見されて以来、その地元紙を郵送購読していた。その点も中村に問いただしたいことのひとつではあったが、当面は先に確認したいことがあった。 「新聞調査は私共ではルーチンワークです。それで、アリバイの点はいかがです。わたしに答えられない事情がおありだとしても、警察にはお答えできますでしょうか」 「そんなにぼくのことを心配してくれて悪いね」 「なにしろ、中村さんの肩にはSIVがかかっておりますから」 「十三日から十六日までは会社も一斉盆休みで、ぼくも故郷に帰っておりましたよ」 「どちらです、おくには」 「なんと、栗原郡鴬沢町。細倉と言った方が有名かな」  中村は鼻で笑いながら言った。はるみはどうして中村がそれほど泰然としていられるのか理解できなかった。やってないのだから大丈夫と思っているのだろうが、はるみが見ても疑われる要因は十分だった。 「それで……ご両親とか、奥様とか、どなたかとご一緒でしたか」 「十六日ね、どうだったかな。女房のさとにも行ったからね。ちょっと思い出してみないと何とも言えないな」中村は関心を失ったように言った。「ところで、飯にしよう。十三時のやまびこに乗りたい。なかで弁当食う暇もないんだ。十五分で着いちゃうから」  はるみは中村の態度に歯痒さを覚えたが、従わせるだけの力はなかった。それでも、せめてもの思いで言った。 「申し訳ありませんが、ここでサンドイッチかカレーということにしていただけますか」 「えっ、ぼくはいいけど、君がかわいそうだな」 「いえ、なにしろ時間が切迫しておりますから」 「そうなの、そんなに急いでるの」  時間に追われてるのはあなたよ、と言い出したいのをはるみは抑えこんだ。なるほど真美が中村のことを脳天気とか極楽トンボとか呼ぶ理由がよく分かる。明日にも捜査の手が及ぼうというのに。  中村はウェイトレスを呼んでテーブルに立てられたメニューを見せ、花模様で囲まれた特製カツカレーを注文する。はるみはミックスサンドとアメリカンを頼んだ。ウェイトレスがきびきびと伝票に追加を書き入れて立ち去ると、はるみは言い出しかねていた質問を思い切って口にした。 「突然ですが……井上弘志という名前に聞き覚えはありませんか」 中村はしばし瞑目した。それは記憶を探っているようにも、表情の変化を気取られないようにしたようにも見えた。それから中村はまっすぐはるみの目を見据えて言った。 「いや、知らないな」  はるみは直感でそれが嘘であることを知った。そして、中村の全ての言動に対して、初めて疑惑の念を抱いた。      13  真美は山中百合の消息を派遣部で尋ねた。記録によれば、彼女は三年前にハイテク・リサーチに人材登録し、昨年四月からはセンテックス本社の経理部に派遣されている。しかし、今年の七月には突然契約を解除し、センテックスからもハイテク・リサーチからも離れていた。本籍地、現住所と電話番号を書き写すと、真美は端末機を離れた。  千葉県松戸市と言ったらまるで逆方向じゃないの、と真美は内心で口を尖らせた。東京の西側だったら、帰りに回るつもりだったが、向こう側では立ち寄るのも億劫だった。はるみだったらなんの躊躇もなく行くだろうかと、ふと若さを妬ましく感じる。一瞬、電話で済まそうかと思ったが、すぐに考え直した。居留守を使われたり、名乗った途端に切られたりしたら二度とコンタクトは取れなくなるだろう。やはり夜討ち朝駆けで直接行くに如くはない。  結局、真美が新京成沿いの山中百合のアパートを訪ねたのは午後八時を過ぎたころだった。しかしその部屋に明かりはなく、ベルの音に答える者もなかった。真美はガスの元栓が閉められて封印されているのを見て、隣の部屋のベルを押した。がらりと台所の窓が明けられて、逆光に若い女の顔が浮かんだ。 「なんですか」と、そ